ヒンドゥー教の神と交感する生活

大阪の国立民族学博物館の「交感する神と人―ヒンドゥー神像の世界」展(2023年12月で終了)は、インド・ヒンドゥー教の神々と人々との交感を提示した興味深い展示でした。大阪まで足をのばしたのですが、そのかいあったと思える展示でした。

驚いたのは、ヒンドゥー教の神々が石や金属、絵画、印刷物、コミックや切手などのさまざまなモノを通じて表現されていて、どこまで生活の中に入り込んでるの?という感じで、神々の像が、人々との、それこそ五感を介した交流の媒体としての役割を果たしてきていることを感じ取ることができます。

神々を祀るための祭壇で使われる品々や神像の装飾、それこそ神々のポスターやカレンダーに描かれた像を装飾するのは、推しのアイドルをデコし愛でるというようなもにに似ているなという印象まで受けます。信仰という点では、日本にはお地蔵さんに、赤いよだれかけをかけたりすることがあるのですが、実際のインドの方々の生活を知らないので、なんとも言えないのですが、神様のカレンダーとか絵本とか、シールとかラベルとかまであると、そうしたことをはるかに超えて生活の中に入っているようにも見えます。

神様に対する観念、抱き方が日本とは違うなということ。

展示を見ていると、人々は神像に具体的な愛情を捧げている様子が、容易に想像されます。日常的にもも、神像を沐浴させたり、自分たちの願いを神に伝えようとしている感覚が文化が違うといえども。なにか訴えかけてくるものがあります。ちなみのこうした神像の制作を支えている部分に日本の会社もあったり、グローバル化というかビックリです。

こうした展示を見ていると、人間は超越した存在への畏怖を抜きに語ることができないなと思います。神々が人々にとっての精神的な支えであり、愛を通じた交感が重要であるということ。実際に聞いてみたいなと思うのは、シヴァであれガネーシャであれ、クリシュナであれ、インドの方々はか神々を具体的にどんな感性でとらえているのか?それは自分自身にあてはめてみいると、どんな部分に共通点があるのか?ということです。

神聖なるものが、神という超越的な存在が人の心のどのあたりに根をはっているんだろうと思うわけです。日本は情報化が進み、いや、進みすぎて、SNSはじめ他者の視点を気にして、時に傷つき、商品にあふれた日常は、自分の懐具合とかけ離れ、そんな状態で、現代は自分という存在を保つことが難しい局面にきているように思います。そんなことを考えると、神々が生活に深く入り込み愛でている様子は、なにかヒントがあるように思えました。

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