グノーシス主義について考えた

グノーシス主義という言葉を知ったのは、20代の頃に、著名な深層心理学のユングの著作物を読んだときでした。人間心理の深い部分まで切り込んでいくユングの思想に、若かった私はとても感銘し、その後の、ものの見方に大きな影響を与えました。しかしグノーシス主義なるものには名前だけ覚え、わからないまま数十年過ごしました。

最近、グノーシス主義に関心を持つ機会があり、あらためて触れて見ると、面白いなと感じる部分がありました。

グノーシス主義は原始キリスト教とほぼ同じ頃、地中海の周辺に現れた思想で、本来、人間は至高神の一部であるとする、人間即神也という考え方で、この世は悪であり、この世を作ったのは神であるはずがないとし、人間本来の自己なるものが神であり、魂と至高神は同一であるというのです。こうした部分が人間の心が個性化していく、自己に出会うというユングが影響を受けたのかもしれないと、勝手に思い想像するわけですが、実情はわかりません。とにかく、絶対的な神が天にいるのではなく、神は自分自身の中にいるという考え方が面白いわけです。それはある意味で現代的な発想とも言えないでしょうか?

人間の真の自己の隠喩としての「光」、その対立原理としての「闇」。「光」に破れが発生し「闇」の領域に造物神が生成し、プレ・ローマという領域に様々な神々(=アイオーン)が、流失した。ここで神々の最下層に位置するソフィアというアイオーンが知られざる父=至高神を知りたいと欲した、ソフィアの過失と呼ばれることから無知蒙昧な造物神が生まれ、可視化された世界を作り、宇宙万物を作った。

しかしその現実世界は悪の世界だった。造物神であるヤルダバオードは「私こそ神である。私の他にはないもない」と、だがこの造物神によって作られた世界そのものは、欠乏をはらんだものであったのだ。これはユダヤ教的、キリスト教的な神の考え方とは全く違うもので、異教的色彩が強iいものです。

グノーシス主義と言えば、ナグハマディ文書です。1945年エジプトのナグ・ハマディでローマ時代の墓場から発見されたコプト語で書かれた13冊の写本。様々なグノーシス主義のグループによる文書だったのです。この発見により、正統から見た異端であるグノーシス主義を論駁するものが、別の立場からの見方ができるようになりました。それは非キリスト教的な原本であり、ユダヤ教の旧約聖書の伝統に対する価値転倒的な解釈でありました。ナグ・ハマディ文書には、新約聖書の外典もあり、キリスト教においてもグノーシス主義的な影響を受けたものもあり、いろいろな考え方があったということを想像させてくれます。この善悪二元論のグノーシス主義は、マニ教として集大成されることになります。

そういえば、至高神とバルベローという神格は、両性具有であるそうです。この両性具有ということもユングの著作から知ったことを思いだしました。

※講談社学術文庫における 大貫 隆 氏の「グノーシスの神話」を参考と独自解釈のものとなっています。

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