「恐怖」について考えた二、三のこと・・・②

今回も「恐怖」について二、三、考えてみたいと思います。その思考の手掛かりに小説家の平山夢明(ゆめあき)氏の「恐怖の構造」という本を参考にしたいと思います。平山氏はホラー作家として作り手側にいる方なので、恐怖の心理メカニズムを独自の視点で書いた本といえます。

小説の作法として、ジャンルを意識することはとても大切と平山氏は言います。つまりジャンルごとの約束事としてのゴールの設定はゆるぎない構造として読者と契約されるべきものなのだと。

ホラーであれば主人公は生き残るのか?死んでしまうのか?サスペンスであれば自分を窮地に陥らせるものの正体を解明し、再び日常へと戻れるのか?スリラーであれば、理解不能な出来事を解明する手段を主人公は持たず、その前提で危機的状況をなんとかすり抜けていく。アクションであれば、最初にゴールが設定され、克服しなければいけない課題が提示されるといった具合です。

ところで平山氏は「ゴッドファーザー」「タクシードライバー」「羊たちの沈黙」といった映画こそ、恐ろしさを感じるといいます。それは知らず知らずのうちに巻き込まれていったり、人生の出口不安を引き起こすような映画こそ恐ろしいのだというのです。

この恐れという感情は、恐怖ではなく不安ではないのか?恐怖とは対象があり、そのために克服するか、逃げるかという選択肢がある。しかし、不安というのは漠然としたものであり、恐怖未満。もやっとした感情であり、まるで砂漠のようで、どこに向かって逃げればわからない状態。だから恐怖より不安のほうがやっかいなのでは?と言います。

たしかに、人はこの不安な状態が続くとその不安に耐え切れず、やがて過剰な行動に出てしまうことがあります。人は不安を不安のままで留めておくことができないし、人は私という自分以外の他者を意識すればするほど、相対的評価が常に付きまとうようになり曖昧模糊とした不安を生んでしまう。

こうなってくると、生きるとは何なのか?という哲学的なことにつながっていきます。

恐怖の根っこには、私とは一体何者?という自己存在の問題があり、それを揺るがされると、人は恐怖を感じてしまう。存在論にかかわってくるのかもしれません。

ちなみに平山氏は「物語というのは、不安で始まり恐怖の克服で終わる」と書いています。人生、そうした物語論のように送れたらいいなと思います。

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