「恐怖」について考えた二、三のこと・・・①
今回、恐怖とは?を考えるにあたり、樋口ヒロユキさんという方の「恐怖の美学」という本を参考にしていきたいと思います。しかしながら、私が樋口氏の恐怖の捉え方を適切に把握しているかという点には、率直に言って疑念を抱かざるを得ません。したがって、彼の思考を参考にしながらも、それはあくまで参照のひとつに過ぎないということになります。
「恐怖の美学」では、人が感じる恐怖について、たとえば、夜の墓場の肝試しは、一種の記号消費であるとして、フェルディナン・ド・ソシュールの記号論を持ち出して説明しています。死者を弔った場所である墓場において、木々の陰に不可思議な人影のような姿が映えたり、ささいな音にも身震いを覚えるような、理解を超えた不安を煽る記号の数々が存在することによって、それはまさに肝試しとなるわけで、一種の記号消費なのだというのです。
その記号論ですが、記号というのは、シニフィエ=記号内容、シニフィアン=記号表現にわけることができ、記号には1.文化記号~記号内容と記号表現が文化的に結びつけられているタイプの記号。2.物理記号~記号内容と記号表現が物理的な因果関係で結びつけられた記号。3.類似記号~シニフィアンとシニフィエが視覚的な類似関係で結ばれている記号と3つのタイプがあるといいます。
ここで恐怖の要素は、何々なのに何々が起きた、誰もいないはずなのに不思議な人影のようなものが見えた、誰もいない→木々の陰しか見えないという通常の因果関係、それが誰もいない、なのに、不思議な人影のようなものが見えた、というように「なのに」という因果律が乱れたとき恐怖を感じるというのです。墓場の肝試しはまさにそういう記号認知の不安状態が起こりえる環境になるわけです。
通常とは違う、常軌を逸した時に、人は恐ろしいと感じるわけです。因果関係が崩れ去り、シニフィアン(記号表現)は、からっぽな記号内容となりそれは、意味を喪失した無意味の世界へとなるのです。そこには、シニフィエなきシニフィアンの底に潜んでいる死の予感が裏に隠れているともいえるのです。
恐怖は私たちが曖昧なものを知覚したときに発動する感性のシグナル、未知なものに対して発動するもので、食事における味覚のようなものと類推することもできます。この食材は腐っていると感じれば、すぐに口から吐き出します。私たちは感性のシグナルで異物と言えるようなものを時に取り込み、時に排除を繰り返して、精神の安定を保っているといえます。
そのシグナルが発動するのは、私たちの外部、共同体の外部、理解の範疇の外にあるものに対して。それゆえにシニフィエなきシニフィアンは、「恐怖」を呼び起こす故に、他者を操ることもできるため、時に悪用される可能性がある強力な力となりうるのです。
人は恐怖とともに生きており、そして死んでいく存在であるということ。恐怖とは人間という存在をみたときに根源的なものと言えそうですね。