イマジネーションの扉よ、開け!コクトーの映画「美女と野獣」

映画「美女と野獣」(1946年)

■製作年:1946年
■監督:ジャン・コクトー
■出演:ジャン・マレー、ジョゼット・デイ、ミラ・パレリ、他

ジャン・コクトーが第二次世界大戦時、パリがナチス・ドイツに占拠され戦況も後半になり、パリ開放の一年後に映画化した「美女と野獣」。この話はディズニーが映画化しているので、それがとにかくメジャーでしょう。

私は「美女と野獣」についてディズニーもジャン・コクトーのもちゃんと見たことがなく、実は今回がはじめて。この異類婚姻譚は、おとぎ話のよう。映画が公開された年代を考えれば、最大限、異装の特殊メイクにがんばったなという気がします。

しかし、映像の技術も物語の構成もどんどん進化しているので、今見ると単純かつ陳腐な印象は否めないけど、逆に、大いに影響を与えたんだろうと想像します。

現実の世界とは違う異空間の豪奢な古城、金銀財宝の山に埋もれながらも、見た目とは異なり人一倍優しい心を持つ野獣は、その異形ゆえに、悩み苦しんでいる。人は見た目とは違うんだという格言的な要素を持ちながら、最後は妖術が溶けて男前の人間に戻る。魔術、魔法の世界ですね。それはキリスト教的な世界観とはまるで違う。

コクトーの他の作品をほとんど見ていないのですが、映画「詩人の血」を見る限り、異次元の世界との行き来き、それは別の視点から見るとイマジネーションの扉を開けることを、あの時代果敢にテーマとしてあげていたのかもしれません。

私が分析し統御する神秘を、ひとりの人間が見破ることは可能か?否、不可能だ。テクニックそのものはおとりである。ワイルドがいみじくも指摘した通り、テクニックは個性にほかならぬ。テクニシャンたちは、私の「美女と野獣」を見て、私が第一級のテクニックの持ち主であると云う。私はそんなもの持っていない。なぜならそんなものは存在しないからだ。おそらく人は、精神が自分の首を折らないように本能的に作品の中で演ずる一秒ごとの曲芸を、テクニックと呼ぶのだろう。そのことは次のようなピカソの偉大な言葉に要約されている。ー《技巧(メチエ)とは習得されることのないものの謂だ。》by ジャン・コクトー

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