知の巨人・立花隆さんの「知の旅は終わらない」がとても面白い!

「知の旅は終わらない」立花隆(文春新書)

最近読んだ本で、面白い!と思ったのが立花隆の「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(文春新書)です。現代の知の巨人としられ鬼門に入られた立花隆の自伝的な本なのですが、そこかしこに立花隆の考え方やその姿勢が散りばめられており、感心させられたり、なるほどなと思ったり、刺激を受けたりと面白くって一気に読み進めたのです。

立花さんはものすごい数の蔵書があることで有名だったわけですけど、死んだら最後は古本屋に譲渡しくれという言葉を残したみたいです。この本にもありましたが『結局、死ぬというのは夢の中に入っていくのに近い体験なのだから、いい夢をみようという気持ちで人間は死んでいくことができるんじゃないか。そういう気持ちになりました』と書いている立花さんらしい死生観によることだなと思いました。

立花さんは被爆地・長崎に生まれた。原爆投下の被害は落とされたことは知っていても、占領軍は記録写真や映像を接収し秘匿していたので、一般には伝わらなかったと。1952年のアサヒグラフに公開されその被害の実態が公開された大きなショックを受けたと書いています。終戦が1945年なので10年間、そうした被害が具体的に公にされることはなかった?情報は操作されているという顕著な例なのかもしれません。

そんなこともあり東大生の時に、原水爆反対運動にのめりこんだそうですが、なんとか海外に出てみたいという思いは、カンパを集めてロンドンで開かれる「国際学生青年核軍縮会議」に参加することになります。そこで、すごいなと思ったのが、渡航費用などが100万円かかる、現在価値でいえば1000万円くらい。カンパで半分をまかない、あと半分を東大総長にかけあい、総長経由で読売新聞が独占ニュースにするということで資金を引き出したということ。この時、立花さんはヨーロッパを半年間回ったといいます。その行動力には、驚くばかりです。

この体験が自分がまったくしらない巨大な文化体系が存在するんだと学び、後の立花さんの考え方に大きな影響をあたえたといいます。そして立花さんは人の知的な営みについて『人間はすべて実体験というものが先なんです。これは何だろうという驚きがあって、それを理解したいから、本を読んだり、考えたりするんです。・・・ひとつの文化体系を本で読むことだけで勉強しようとしても、基本的に無理なんです。それはとても勉強しきれるものではない。ある文化体系を理解しようと思ったら、そこに飛び込んでその中に身を置いてしまうしかないんですね。理解とは百科全書的な知識をただ自分の頭の中に移し替えて獲得できるという性格のものではないということです。自分の全存在をその中に置いたときに、はじめて見えてくるものがある。あるひとりの人が、ある具体的な人間存在として、あるときある場所で、ある具体的な世界を見ている。そういう具体的な事実関係抜きの認識なんてない。あらゆる認識は、その認識が成立したときの具体的事実関係に根ざした色がついている。無色透明の認識なんてないんです。』と書いており、体験の重要性とバリアのかかっていない認識なんてないということを明らかにしています。

そして立花さんは自信の知的探求を「旅」にたとえて以下のように述べています。『旅は日常性からの脱却そのものだから、その過程で得られたすべての刺激がノヴェルティ(新奇さ)の要素を持ち、記憶されると同時に、その人の個性と知情意のシステムにユニークな刻印を刻んでいきます。旅で経験することがその人を変えていく。その人を作り直していく。旅の前と旅の後では、その人は同じ人ではありえないのです。旅の意味をもう少し拡張して、人の日常生活ですら無数の小さな旅の集積ととらえるなら、人は無数の小さな旅の、あるいは「大きな旅の無数の小さな構成要素」がもたらす小さな変化の集積体として常住不断の変化をとげつつある存在といってよいでしょう。』

強調し引用した立花隆さんの言葉ですが、私は読書が好きですが、なかなか気に入った、すてきな言葉もしくは文章に出会うことは少ないのですが、この立花さんの文章は何度も読み返したくなる素敵な言葉だと思いました。つまりそれだけ読書体験として心に響くものがあったということだと思います。ほんとに面白くスリリングな本でした。(※『』部分、「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(文春新書) から引用)

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