本とは一体何なのか?華氏451度は語りかける
映画「華氏451」(1966年)
■製作年:1966年
■監督:フランソワ・トリュフォー
■出演:オスカー・ウェルナー、ジュリー・クリスティ、シリル・キューザック、他
レイ・ブラッドベリの小説「華氏451度」、フランソワ・トリフォー監督が映画化した近未来のSFもの。ここで描かれる近未来社会とは、本を読むことが許されない社会が描いています。本が読めない社会とは?疑問を持つことが許されない、思考の多様性、幅を持つことが許されない社会。そこでの人間は、管理する側から様々な情報が与えられ、かつ、飽きさせないよう工夫されたも環境の中で思考停止状態に近い形で生活をしている超管理社会。
もし隠れて本を読んでいたらファイヤーマンなる男たちが駆けつけて家宅捜査され、出てきた書物類は燃やされてしまう。本とは人類がそこに書き表現し影響を与え更なる次のステージに行く手助けをするものだ。その本を読むな、見つかれば異端として本が焼かれてしまう。
活字や文字情報に溢れた現代に置いて、そのような社会が可能になるのだろうか?なんてことも思うのですが、現代は本をじっくり読むということが希薄になってきているようにも思えます。情報は溢れています。気軽に検索すれば、様々な情報を手にすることができるのですが、思考を重ねるということが逆に弱くなってきているのではないか?と思うことがあります。
その情報を得るために簡易的に編集された映像をみて、いろいろなことを判断していく。表層をなぞっているわけで、その奥に潜むことまで思考が及んでいない。本とは深く思考したものの結実として後世に読まれ継がれていくわけですが、そうしたことが希薄になってきているようにも思います。
映像で映ることがリアルなこととして目に入って来る時代。果たしてその映像は事実を伝えているのだろうか?意図的な編集で我々を誘導してはいないか?あるいは、ある人が、私は様々なツールから情報を取り出すことにたけている、情報収集能力の達人と自負しているものの、それは実際に自分の頭で考えたことなのか?錯覚をしているのではないか?
小説と映画で印象的な部分があります。それはこっそり本を読んでいたら老婦人、ファイヤーマンの家宅捜査が入り、多くの本が隠されていた。ファイヤーマンがその本を焼却しようとすると、本を愛した老婦人も一緒に燃えてしまう場面。自分の命を捧げ本とともに焼かれてしまう。命をかけても本を大事にするその姿勢は、体制、システムに対してこれでいいのか?ということを感じさせる、思考の転換を図る場面です。
日常を破るようなショックなことが起きたとき、それを前向きに受け入れ、捉え考えれば、いい意味で意識変革のきっかけになり得るということ。プラスの方向に意識を変えることができれば、人生を豊かにさせてくれるに違いないのです。ここに登場する主人公は、その後の展開において疑問を抱くことにより、豊かな本の世界へと向かうターニングポイントであったかもしれません。