新しい関係性が見えてくる「聖地巡礼」

「聖地巡礼」岡本亮輔・著(中公新書)

聖地巡礼。以前、岡本亮輔氏の「宗教と日本人」を読んで面白かったので左記のテーマの本を読んでみました。

<聖地>とは、従来は宗教において特別な地位を与えられた場所であり、その場所への旅が<巡礼>とされてきたが、近年、社会が宗教から解放され支配的な価値観や文化が薄れ世俗化が進み、その過程において<宗教と観光の融合>が見られ、必ずしもそのように定義される形態をとっていない現象がみられるのだと岡本氏は指摘します。

価値観や世界観の多様化により、個々人が宗教に対してプライベートにかかわる<私事化>が進み、その結果スピリチュアリティという私的な信仰の多様性に対応する現象もみることができる。このように指摘する岡本氏の本を読んでいると、特定の宗教に信仰心がなく、しかし、精神世界的なことに関心がある私にとって、全く私の行動そのものを指しているかのように思えてきます。つまり、今という時代を生きる私事化した代表選手のようなものなんだと。

宗教と観光が交差することによって生まれる文化的変容を、岡本氏は ①聖遺物や聖母出現といった聖地に訪れる人の体験を、②最近は信仰なき巡礼者が訪れそこでの人々の交流に価値の重きが置かれるサンティアゴ・デ・コンポステラ巡礼の事例を、③その流れのなかで世界文化遺産というラベルとそれが何が基準でどこに貼られるかを見ることによる宗教文化の変容を、④フェイクな場所としての青森県にあるキリストの墓と地域がそこを支えるコミュニティの観点から、⑤近年のパワースポット・ブームにおける自分の趣味趣向を重視する新しい宗教感性の潮流を、⑥宗教とは関係のないアニメの舞台となり聖地となった現象について論じていきながら、宗教/世俗、巡礼/観光という分け方が通用しなくなっている現代の聖地巡礼を分析しています。

観光という文字は、光を観ると書くので、もともとは何か神々しい聖なるものを観に行く旅なのだと、以前どこかで読んだことがあるように思います。ハレとヶ、非日常と日常の区別がはっきりしていたであろう過去の時代において、観光とは祭と同じようにハレの行動だったのかもしれません。しかし高度に情報化が進み消費社会になっている現代ではハレとヶの単純な二層構造では説明ができない時代となってきているように思います。この本にも出てくる民俗学者の小松和彦氏が指摘しているように、この現代はハレハレ社会であり、ハレが日常化しており、結果、より強度の強いハレを求めて新たな祝祭が作りだされていくのだと。

オリンピックを見ていて思うのは、4年に一度のハレの舞台、その開会式はどんどんエスカレートし、アイデアの上にアイデアを塗り重ねる。本来はスポーツの祭典であったろうものが、政治、ビジネスといった様々な思惑が微妙に絡み、国威発揚の場ともなり、選手、観客を巻き込み純粋なるアマチュア競技という枠組みを超えてしまった別の意味で、危うい方向に研ぎ澄まされた場になっているような気がします。それは岡本氏が分析している宗教と観光の融合による聖地巡礼の現象と少しだけ似ているのかもしれません。

競い合う選手。期待された選手の一瞬のミスによる敗退と涙。そこにオリンピックを支配する宗教の観念はなく、信仰上の神はいません。しかし、勝利の女神は微笑んだのか?という視点を持ってしまうわけです。

岡本氏が現代における聖地巡礼について『その場所についてどのようなイメージが流布しており、その場所が人々にいかなる体験を与えるのかという側面が重要になっている』『そこを唯一無二の場所に変える物語とそれを共有する人々のつながりが不可欠』で『場所と共同性の持続的な往還運動の中で、聖なる場所がたちあらわれてくる』『宗教的なものは世俗領域の中に溶け込むようになっており、聖地巡礼の興隆は、宗教と社会の新たな関係性のあり方を指し示している』と言及しているように、それはジャンルが違うもオリンピックにも言えるような気がします。(北京オリンピックを見ながら・・・)

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