ゴヤが描く世界は目に痛いのだ・・・

今から40年前の学生の時、「幻想美術」に関する新書本を読んだときにゴヤの絵が掲載されており、この絵、すごいなと思ったのが、たぶんゴヤという名前を刻んだ初めてだったと思います。惹かれた絵は「ロス・カプリーチョス」という有名な版画の中の『理性の眠りは怪物を生む』という作品。

男は机に顔をうずめて眠っているかのよう。その周囲を動物達が取り囲んでいる。光りは男の背中の辺りから飛び立とうとするフクロウを照らしている。コウモリは男の背後の暗闇、その奥深くから飛んでくる。オオヤマネコは画家を見ている。フクロウの一羽はペンらしきものを持って彼に続けなさいと促しているよう。男は画家なのか、作家なのか?その中で男の背後にいるネコが暗闇で眼のみを光らせて観賞者を見つめていて視線が合う。有名なこの版画、じっくり見るとだんだんすごく感じてくる。人間の根源的な光もあれば闇もあるドロドロしたものを見事に描いているように思います。

以来、ゴヤの絵を度々、画集などで目にするようになるのですが、そのどれも人間の表と裏、欲望、暴力、狂気、不条理といったものを暴き出すかのようなインパクトがあるものが多く、どんなにかパワーがある作家なんだと。絵から伝わる異様な力はゴッホと双璧をなしているんじゃないないかと私の感覚では思うのです。

ゴヤの生きた時代はどんな人物がでた時代だったのか?時代を超えて残る哲学や小説、音楽は、モンテスキュー「法の精神」、アダム・スミス「諸国民の富」、ゲーテ「若きウェルテルの悩み」「ファウスト」、カント「純粋理性批判」、モーツァルト「フィガロの結婚」「魔笛」など。他にもベートーヴェン、ベルリオーズ、ヘーゲル、マルキ=ド=サドらが同時代人としていました。そしてマリーアントワネットも。この時代に生まれた学問や音楽などは、いまだ大きな影響を与えているのではないでしょうか?

ところでゴヤと言えば、『裸のマハ』『着衣のマハ』が有名ですが、この2枚の絵は同寸法で描かれていて、2枚重ねて壁に嵌め込み、仕掛けを操作すると「裸のマハ」が飛び出すカラクリになっていたとか。2枚のマハは、サロンで一目にふれさせるときには着衣のものを、こっそり裸の絵をたのしもうという時にカラクリの操作一つで、できるように作らせたものだったらしい。ちなみにこの「裸のマハ」は美術史上はじめて陰毛が描かれた絵でもある。ゴヤの生きた時代は異端審問所も残っていたわけですが、教会を批判するような絵もあるので、けっこう過激な人だった?

人の情感を刺激するような絵が多いゴヤですが、これといったストレートなテーマがない感じの作品『アルバ女公爵とラ・ベアタ』という絵があるのですが、私はこの絵に濃密なエロティシズムを感じるのです。二人の女性にスポットがあたり、一人は背を向けて赤いリボンのようなものを持って老いた女中に詰め寄っているよう。女中は杖をつき、のけぞっていて、あたかも身を守るように十字架を振りかざしている。その目は冷ややかでもある。女中の愛称がラ・ベアタといい、至福を受けた敬けんなという意味があり信心深さからついたそうだ。一方の、アルバ女公爵はゴヤと肉体関係があったとされている女性。

この絵には キリスト教信仰の象徴と呪術信仰の象徴の対決をさしているという解釈ができるということですが、それとは別に、この女公爵の後ろ姿が何とも艶めかしい。私の一番目を引くのはアルバ女公爵のしなやかな曲線なのです。美術作品からそのような感覚を感じるのは、とても珍しいので、とても不思議な絵なんだと個人的に感じています。ちなみに10年ほど前に開催された「ゴヤ展」に「着衣のマハ」とともに出展されていたのですが、私は有名な「着衣のマハ」よりもこの絵の方が、強く印象に残った記憶があります。

ここで私が好きな2人の思想家がゴヤをどうとらえているのか、を見てみると

ジョルジュ・バタイユ「沈黙の絵画」

●悲惨、不具、老年のさまざまな失寵、狂気、愚かさ、虐殺、夢のおそるべき形象、そしてひとつの支配的なオプセッションとして、異端糾問のさまざまな拷問の中に駆り立てられた生。これらの主題に対する描き方の適合性以上によく感じとられるものはなにもない。描き方は逼迫している。

●それが魅惑するがゆえにそれはそこにあるのだ。そして、それをあらわすゴヤの作品があますことなく魅惑するとすれば、それはゴヤの作品が、なにものにも立ちどまらず、なにものをも織らない叫びによってのように、意味のない途方もない不正の積極的な価値を表現しているからである。

 

澁澤龍彦「ゴヤ、あるいは肉体の牢獄」

●サドもゴヤも、いずれも18世紀後半から19世紀初頭へかけての激動の時代に行きた、ロマン主義の母胎としての偉大なペシミズムの鼓舞者であり、かつ先駆者であったのである。

●聾になるとともに、ゴヤの作品は幻想的になり、幻想的になるとともに、その辛辣なイロニーの度合いをいよいよ深めていった。それはあたかも、バスティーユのなかのサド候爵の孤独な幻想が、監禁状態によっていよいよ血なまぐさく、いよいよ残酷に荒れ狂ってゆくのと軌を一にしていた。 … 錯乱は錯乱でも、彼ら2人18世紀の錯乱は、徹頭徹尾、明晰な錯乱であり、論理の錯乱である。ゴヤは、堪えがたい狂気のイメージによって世界を解釈している、とった印象を私は否応答なしに受けるのである。

●<着衣のマハ>と<裸のマハ>を二つ並べて提示したゴヤの独創を、ゆめゆめ軽く見過ごしてはならないと私は考える。そして、一見さりげない<裸のマハ>の図のなかに、危険な芽をふくんだエロティシズムの論理が圧縮されているということを、私たちは活眼によって見抜かねばならないと思う。それこそゴヤの芸術の本質だからである。

※以上、「ゴヤの世界」大高保二郎・雪山行二編(リブロポート)から引用

ゴヤを生んだスペインには映画賞としてゴヤ賞という名称のついたものもあります。ゴヤと名前はスペインにとって重要な存在の美術家ということか?そのスペイン発のゴヤに関する映画があります。

映画「ゴヤ」(監督:カルロス・サウラ)

■製作年:1999年
■出演:フランシスコ・ラバル、ホセ・コロナード、エウラリア・ラモン、他

名匠カルロス・サウラ監督による「ゴヤ」。死を目前に控えた晩年のゴヤが過去の人生を回想するという形式で、まるで舞台装置のような空間の中で抽象的とも言える映像構成の映画。監督のカルロス・サウラはゴヤと同じ地方の出身、同郷であり、兄はゴヤに関する専門家にして現代スペインを代表する美術家であるそうだ。

映画はゴヤの、上記の艶めかしい絵と紹介したアルバ女公爵との蜜月を中心に描き、彼女は王妃マリア・ルイーサがゴドイと組んで殺されたとしている。その辺りは判然としない。思うに人物の背景と人間関係の知識がないとイマイチわかりづらい。

劇中にこんな感じの台詞が出てきた。「一番恐い怪物はなんだ?それは人間だ。動物はただ本能に従っているだけ。人間は悪を認識しながら悪事を働くから」戦争の悲惨さを告発的に版画で表現したゴヤならではの言葉か?

 

映画「裸のマハ」(監督:ビガス・ルナ)

■製作年:1999年
■出演:アイタナ・サンチェス・ギヨン、ペネロペ・クルス、他

舞台はゴヤは宮廷画家として成功した時代、王妃マリア・ルイーサが情夫ゴドイを拾い上げ彼の権力が増し、対するアルバ女公爵も己の欲求のままに生きた、その時代を描いています。このスペイン貴族がフランスに攻め入られるまえの痴情を繰り広げた人間模様の浅ましさが描かれています。

映画のタイトルになっている「裸のマハ」、そのモデルは誰?この映画では最近の通説となっているペピータという女性(ペネロペ・クルスが演じている)がモデルとなっていているも、アルバ女公爵が完成した絵を見て、この体は私がモデルよと堂々と発言し、その話を部屋の影で盗み聞きしていたペピータは怒りに震えます。自由奔放なアルバ女公爵は結局、毒殺されてしまいます。映画の展開はその毒殺の犯人は?というところに進んでいくものの犯人を特定せず謎を残したまま。

最後にもう一つ、私的に思うのは、宮廷画家として成功したゴヤは、50歳前後の時に重い病気(脳卒中もしくは鉛中毒)により、耳が聞こえなくなったそうだ。このことがゴヤに何らかの影響を与えているのではないか?いろいろ毒のある作品を描いている時期を見ると、耳が聞こえなくなってからのものが多いのです。人とスムーズなコミュニケーションが取れていたのが、急にそうでなくなるのは心理的なストレスをゴヤに与えたに違いない、そうした要因がゴヤに変化をもたらしたのか?というのも私も50歳くらいの時に、耳の手術を受けて左耳が聞こえなくなり、聞こえている右耳の聴力も落ちてしまい、日常生活で大変不自由をしているから。聴力が弱いって相手にはなかなか伝わらないんですよね。

そんな中で、人間の根源的な裏面の悪意をあぶりだすような、そして、美術史に残るような作品をいくつも描いていったゴヤは、ほんとにすごい作家だと思います。

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