天才絵師・伊藤若冲の「五百羅漢」石仏群がユニーク

近年評価がつとに髙い伊藤若冲。その異様なまでの精緻な筆遣いが、若冲としかいえない独特な世界観を見せてくれます。その若冲が晩年に制作に関わったという石峰寺(京都)の五百羅漢の石仏群。

若冲は天明の大火で焼け出されたあと、妹とともに石峰寺の古庵に移り住んだそうです。 五百羅漢の石仏群は、若冲が下絵を描き、石工が彫ったとか。ひとつひとつの石仏の顔は笑っていたり、怒っていたり喜怒哀楽をまるで漫画のように表現されていているのが、とてもユニーク。あの独特な若冲の絵とはまた趣が違います。

石峰寺の本堂裏の竹林に五百羅漢像はあり、様々な石仏の表情と竹林の取り合わせがなんともいえぬ雰囲気を醸し出しています。その空間に浸っているとなぜか幸せな気分になります。この石峰寺の墓地には若冲の墓もあります。

その伊藤若冲ですが、澤田瞳子氏による「若冲」という小説があり、この五百羅漢の石仏群に関するテキストがあるので下記に引用しました。それによると下絵を格安で請け負ったようなのですが、その根底には若冲の数少ない友であった諸国を旅した池大雅の死があったように描いていました。

『一昨年、伏見の石峰寺に釈迦の誕生から涅槃までを表す石仏五百体の建立を発願し、一枚銀六匁という格安の画料で染筆を始めたからである。銀六匁は、米一斗の値、若冲はこの銭を受け取ると石仏の下絵を描き、それを石工に渡して石峰寺の裏山に安置するよう計らっていた。京でも名の知れた画人である若冲が、米一斗の翁という別号まで用いて、廉価で絵を描くのだ。・・・・・・

石仏群は釈迦の誕生から入滅、更には賽の河原までも石仏で表す一方、多くの羅漢たちが思い思いに仏道にいそしむ姿も捉えている。羅漢とは、釈迦の入滅後に行われた仏典結集に集まった仏弟子たち。深山で厳しい修行に励む彼らは、古くから多くの画人が好んで画題に取り上げたが、若冲は下絵を描いたそれは、大振りな目鼻立ちが個性的な人物像。ある者は跪坐して合掌し、ある者は太い足を投げ出して地面に座りこんでいる。・・・・・・

そんな若冲が石仏五百体の造立を始めたのは、大雅の死の翌年。東山のそこここで山桜がほころび始めた矢先であった「いいや、若冲はんがこうして、石峰寺に新たな世界を作ろうとなさるだけで、大雅はんは喜ばれるはずじゃ。やっと旅のよさがわかりましたか、とあの世で笑うておられるやもしれぬ」・・・・・・

京都以外の地にはほとんど足を踏み入れたことのない若冲が、今更旅に出られるわけがない。だからこそ寂流は、心を気儘に遊ばせる場を石峰寺に作り、旅に代えようとした。

いわば、若冲にとって、釈迦の生涯が絵巻物の如く連ねられる石峰寺の山は、亡き友と過ごす終わることのなき旅路だったのである。』(※「若冲」澤田瞳子(文春文庫)から引用)

 

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