モードを考えることは自分とは?社会とは?を考えること
「現代モード論」北山晴一、酒井豊子・著
日本戦後ファッション通史の展覧会であった国立新美術館の 「ファッション イン ジャパン 1945-2020 流行と社会」展 を見て、本棚の奥にった古い本を手に取って見ました。放送大学の教科書「現代モード論」(北山晴一、酒井豊子)。たぶん20年近く前に放送されていた放送大学の番組を見ながら読んだ本。特に放送大学の学生であったわけでなく知的番組というのが面白そうで、番組表のラインナップを見ながら興味がある科目をそれこそ気分で見ていたわけなのですが、振り返ればこんなこともしていたんだなと(笑)
この番組と本ですが、人間が服を纏うのはなぜなのか?という哲学的な問いがありとても勉強になった記憶があります。そこでざっとどんなことが書かれてあったか確認するために久しぶりに本の扉を開けてみました。せっかくなので、過去の記憶を呼び起こす意味でも、自分なりにまとめてみたわけです。
まず衣服の機能には3つあり、①生理的な機能②文明的な機能③社会的な機能があるとして、その衣服とは身体表象のもっとも古く、もっとも現在的な形式であり、衣服のモードを問うことは、他のジャンルの問題、つまり自分とは何か、社会とは何か、社会と自分との関係性はどうなっているのかを考えることにつながってくる。
モード現象とは消費の問題そのものであり、近代消費社会の誕生のありさまを語ることになる。それは、1.生活水準の変化=生存維持の段階から人生享受の段階へ、2.鏡や写真の普及により身体感覚の広がりを獲得したこと(欲望の膨張)⇒内面的身体の拡大と身体の他者性の発見、3.都市空間の視覚重視と近代メディア装置の発展によるメディア化社会が進展したことから読み解くことができる。近代消費社会とは生理的なレベルの必要を超えた地点で発生する別種の必要に基づいているのだと。(寒さや保護をのレベルを超えたところで発生する社会が求める文化的な必要性という理解をしました)
20世紀のモードの中心軸は、まず平等志向社会が出現しそのうえで社会的な差異化への欲求に支えられていること。階級、性差、身体の束縛と開放という事柄を見ることができ、モード現象は個人の人生選択の自由が確立されたときに働く人間の欲望が、期せずして社会的な規範力をつくりあげてしまう、不思議なダイナミズムを備えた現象であったと。つまり差異化のように見せて実は既存グループへの同化へのベクトルであるというメカニズムに乗って動いている社会装置なのだといいます。(わかりやすく言えば、暴走族は暴走族らしいファッションを、ロッカーはロッカーらしいファッションをしてしまうという理解かな)
シャネルやクリスチャン・ディオールといったデザイナーや三宅一生らの活躍を紹介し、ファッションでは欠かせないブランドについて。このブランドとはモードに求心力と遠心力を与える根幹にかかわる事象。ブランドとは夢を具体化したもの、夢の寄り代。贅沢とは何?必要とは何?を考えさせてくれる。何が必要で、何が必要でないのか。それはわれわれの人生のありかたそのものと深くかかわっている問題で、生理的な存在にとって必要なものだけが、必要の中身ではないという事実がそこには見えてくる。
衣服にはセンスとか流行とか自分の個性へのこだわりと他者への視線の配慮があることにより、常に社会規範の強化と自由な拡張を求めて対立している問題がある。さらに衣服は、ジェンダーから異性装、あるいは、造形作品としての衣服はその枠組みを超えて芸術として昇華していく拡張を見せていく。(確かにメディアで紹介される著名人によるファッションショーで陳列される衣服は街で着ることができないものが多い)
モード現象は身体、衣服、欲望の3つの社会的要素に支えられており、現代人はこの要素を美しい身体、美しい衣服、美しい生き方といった用語に置き換えて理解する。つまり現代モードの課題はこの美しさの意味を問うことであるといいます、さらに現代モードは文明と自然の狭間に生起する健康、環境、自由、幸福といった文明論上の問題でもあると結論づけています。(それは展覧会にもありましたが、サステナビリティ、SDGsの問題を避けては通れないといえそうです)
※「現代モード論」北山晴一、酒井豊子・著(放送大学教育振興会)より参考及び引用