自己制御と判断力が麻痺し、落とし穴に気づかず奈落へと・・・清張さんの「わるいやつら」

「わるいやつら」松本清張

松本清張のピカレスク・ロマン「わるいやつら」。この長編小説に登場する人物は皆、欲望に忠実に動いている。己の欲望を満足させるために目の前の困難を乗り越えようとするし、また問題も引き起こしてしまう。誰かが満足すれば、誰かが不満足になる。欲望のゼロサム・ゲームのようなもの。

欲望成就のために犠牲になるのは立場の弱い目先の弱者。欲望は獲物を容易に捕獲するため駆け込み寺を偽装して生き血をすする。欲望に取り憑かれれば取り憑かれるほど、それへの飢えは増していき麻薬に魅了されたような欲望肥大のサイクルへと流れ込む。そしてそのサイクルは同時に矛盾や不具合を同時に発生させながら不満の渦も裏で作り上げてしまう。

主人公の戸谷医師は、自分の立場を生かして薬を投与して昏睡させ治療と称して致死に至る薬を注射する、つまり殺人を犯しながら都合のいい虚偽の死亡診断書を書く。役所は医師の記した診断書は無条件で信用する。ここに完全犯罪が成立するという寸法。専門性と権威を持ち得れば人は自己に有利な立場に立つことができ、自己を律する良心を忘れてしまうと、限りなく犯罪が起こり得ることを松本清張の「わるいやつら」は示唆している。

この戸谷医師を突き動かしている欲望とは何か?それは詰まるところ“女”なのである。病院経営もそぞろに関心は女なのだ。女が高嶺の花であればあるほど戸谷のハンターとしての欲望が刺激される。そしてそれが自己制御と判断力を麻痺させてしまい、落とし穴に気づかず奈落へと転落する引き金も同時に弾いてしまう。

女と戯れたいがために情の部分を巧みに刺激する。それをどこまでの悪い奴とするのか。タイトルの「わるいやつら」は「悪い奴ら」とは書かれてはいない。親の財産を食い潰して成り立っている免疫力もそこそこの気弱なエゴイストで女好きの“わる”を主人公にしたのが松本清張の小説で本当の“悪”は別にいる。仮面を被り、あるいは着飾り、その姿を悟られないようにカモフラージュする。能ある鷹は爪を隠すのだ。頭もいいしクール。そして巧みに近寄り完膚無きまでに貪りつくすのである。

映画「わるいやつら」(1980年)

■製作年:1980年
■監督:野村芳太郎
■出演:片岡仁左衛門、松坂慶子、藤真利子、神崎愛、他

名作として名高い映画「砂の器」が有名な野村芳太郎監督による映画版「わるいやつら」。その配役は、女を翻弄しその生き血を吸う戸谷医師に片岡仁衛門が、そしてその戸谷医師を色香で惑わす槙村隆子に松坂慶子が演じる。

ところで、この映画が作られたのが1980年、丁度、私はは20歳も終わりを向かえようという頃で、映画の画面で見ることができる当時のファッションが懐かしくも感じるものの、同時にすごく古くさく感じてしまったのも事実だった。。

話のほうは微妙に原作と変えられている。わるいやつは一体誰だ?“類は類を呼ぶ”でわるいやつらは甘い蜜に群がってくるものの、少なくとも自業自得で嵌められてしまう戸谷医師は、後半、まるで金策に追われる中小企業の社長のようにも見えてくるのだ。小説だとなんと我が儘で自己都合の論理を組むのだろうと思わされるのが、映像だと慌てふため動き回る彼の様子が描かれているため、その姿を見て金繰りに追われているように見えてしまうのだろう。

それはまた、悪女としての槙村隆子にも言えて、最後に笑う立場にある彼女を演じるのが松坂慶子、彼女の喋り方から醸し出す雰囲気がとてもそのような悪女に見えなかったいということ。彼女の本来持っている女性的なやさしさのオーラが出てしまっていて、最後に病院を乗っ取るような海千山千の女に見えなかったのだ。当時の彼女の無敵の色気であればそれを十二分に生かせ痺れるような悪女になったんだろうなと想像もした。

松本清張の小説を映像化して名作の数々を産んだ野村芳太郎監督ですが、この映画は残念ながら中途半端に終わっているように感じました。わるいやつらのキャスティングが善人に見えてしまったという印象。

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