実態を知らぬ他者達が様々な憶測を、暗示的な三島の戯曲
戯曲「サド侯爵夫人」 三島由紀夫
三島由紀夫の戯曲のこの戯曲は、あまりにも美しくそして官能的な日本語、それにホレボレしてしまう作品だった。この三島の作品を読みながら、舞台化するにはかなりの負荷で役者の力量が要求されるだろうなと思う。そのほとんどが言葉で説明され、語られる台詞が詩的でもあるので、耳から入ってくる役者の声によって、観客はイマジネーションを膨らませ、喚起させなくてはならないからだ。もっと言えば、これは戯曲というよりも長編詩、そうとってもいいようなものと感じたのでした。
戯曲の中で登場人物によって語られるサド侯爵については、断片的な情報しか与えられないので、観客は役者の一言一言を耳を凝らして聞かねばならないであろう。もし、役者の演技が下手であれば、三島由紀夫が創り出した世界を伝えることが充分にできないということになってしまう惧れがある。これは役者にとってもハードな仕事であろうが、実は観客にとってもしんどいに違いない。眠らずにこの演劇を見る、それが観劇の第一条件だろう。
この物語はサド侯爵夫人をはじめ計6人の女性が登場し、目の前にいない人物であるマルキ・ド・サドについて語っていく構成になっている。三島由紀夫が文庫本に納められた自作解題で、“サド夫人は貞淑を、夫人の母親モントレイユ夫人は法・社会・道徳を、シミアーヌ夫人は神を、サン・フォン夫人は肉欲を、サド夫人の妹アンヌは女の無邪気さと無節操を、召使シャルロットは民衆を代表して、これらが惑星の運行のように、交錯しつつ廻転してゆかねばならぬ。”と書いているように、それぞれの立場から見たサド論が展開されるのだが、それはひとえに彼が多面的な魅力を放っているということと、その人物像に関する情報が噂でしか入ってこないことによって、人は自己の立場や都合によって想像上の人物像をつくりあげていくことになる。そしてその視点でもってその人物を評価していくということも読み解けて、寓意性を有した縮図的構成になっているのだ。
それは、コロナに対して様々な憶測が飛び、様々な人間がSNS等で発信している現在の状況に似てはいないか?
ちなみにサド侯爵夫人は、サドに対してロマン溢れる人物像を、きっと己が生きていくために創りあげねばならなかったのであろう。
「アルフォンス。私がこの世で逢った一番ふしぎな人。空くの中から光を紡ぎだし、汚濁を集めて神聖さを作り出し、あの人はもう一度、由緒正しい侯爵家の甲冑を身につけて、敬虔な騎士になりました。あの人がこの世に及ぼす菫いろの光りの中で、あの甲冑がほのかに輝く。地に錆びた鉄の浮き出し模様の、唐草の代わりに薔薇が、花絡の代わりに縄が。そしてその楯は大きな焼鏝の、火に焙られた女の肌の紅いを映し出し、人の悩み、人の苦しみ、人の叫びが、けだかい銀の兜の角ごとにそそり立ち、あの人は血に飽きた剣を唇にあてて、雄々しく誓いの言葉を述べる。
兜から洩れたあの人の金髪は、円光のように蒼ざめた顔を取り巻き、あの人の難攻不落の鎧は、人々の吐息に燻んだ銀の鏡のよう。籠手を外してあらわれた女のような美しい手が、人々の頭に触れると、もっとも蔑まれ、もっとも見捨てられた人も勇気を取り戻し、あの人のあとに従って、暁のほのめく戦場へ勇み立つ。あの人は飛ぶのです。天翔けるのです。銀の鎧の胸に、血みどろの殺戮のあと、この世でもっとも静かな百万の屍の宴のさまをありさまをありありと宿して。
あの人の冷たい氷の力で、血に濡れた百合はふたたび白く、血のまだらに染まった白い馬は、帆船の船首のように胸を張って、朝の稲妻のさし交わす空へ進んでゆく。そのとき空は破れて、洪水のような光りが、見た人の目をのこらず盲らにするあの聖い光りが溢れるのです。アルフォンス。あの人はその光の精なのかもしれませんわ。」(※三島由紀夫「サド公爵夫人」(新潮文庫)より引用)