偶然をどう捉えるかで人生は大きく変わる?

「偶然のチカラ」植島啓司(集英社新書)

たとえば、近松門左衛門の文楽「鑓の権三重帷子」は偶然の出来事によって支配された悲劇にみえる。しかしそれは偶然であったのか、決して偶然とはいえない必然的な要素が見え隠れしたように思える物語となっている。

この与えられた命、人生の展開は偶然に彩られたものなのか、必然に運ばれていったものなのか?私が昔から読んでいる宗教学者の植島啓司氏の本。偶然と必然の問題は哲学的な問題を孕んでいるものでもあり、そこから宗教の発生にも繋がっていくことも想像ができ、人間にとっては実は意識されていないのかもしれませんが大きなことなんだと思います。そして、そこに誰が答えを出すことができよう。

すべては必要・必然は生きる知恵とも感じる。

植島氏は、偶然と必然のテーマを興味深く掘り下げている。文章にはところどころ、文字を大きくし強調したフレーズがいくつかあります。それは氏が強調したい部分なのでしょう。ということは宗教学的にみて何か意味があるキーワードなのかもしれない?と。ということで本書で強調された文章をすべて抜粋してみた。そこに何が見えてくるのだろうか・・・。

未来が見えないとき、いったいどうしたらいいのか

果してわれわれの人生を決めているものはいったいなんなのか

まずいことになる可能性がある場合、必ずまずいことになる

これから起こることについては皆目見当がつかない

コインを二度投げて、一度でも表が出る確率は何%か?

競馬では、もっとも「合理的」と思える判断を積み重ねていくと、なんと必ず破産することになる。

もっともそれらしいと思われる結果は、もっとも起こりえない結果なのである

偶然をめぐっては、自分でも気がつかないカン違いがそこらじゅうに隠れている

いいことが続くと、そろそろ悪いことが起きそうな気がする

いったい偶然ってなんだろう。運がいい悪いって本当にあるのだろうか

それとも、いっそ自分の身に起こったことを、すべて必然と考えてみることはできないだろうか

一般に、悪い出来事は連鎖反応のように続いて起こるというが、実はよい出来事も、そうと自覚しないだけで、やはり同じように続いて起こっているのかもしれない

人は果して選択が正しかったかどうかをけっして自分で確かめることはできない

人間はだれしも自分が選んだことにとらわれて自由な判断ができなくなる

「あれかこれか」ではなく「あれもこれも」

人は自分自身が下した決断からはなかなか自由になれない。だから、いいセールスマンはこちらから説得するのではなく、相手が自分で決断を下せるように導いていく

「いまから五代目の王に旧王家の報復が下るであろう」

人間の生涯はすべて偶然の産物にすぎず、最後の一転がりで結果はどちらになるかわからないのだ

『幸』というのは幸いの原因が自分の中にいない、偶然的な、他より与えられたにすぎない

原因を自己の中に有する、即ち自分の苦心、自分の努力によってかち得たる幸いを『福』という

運というのはけっして眼に見えないものではない

「徳」というのは多くの人々と交わるなかで初めて養われるものであり、そのためにはいつも自分が多くの人々に向かって開かれていることが必要となってくる

あらゆる災厄は当人ではなくその周囲に難を及ぼす。そのほうがよほど怖ろしい。自分の行為の結果は必ずやもっとも大切に思う人の身に降りかかる。

人々にとってはあくまでも偶然で、神にとっては必然でなければならない

幸運ばかり願う心にこそ災いは忍び込むものである

自然の運動はある種のパターンに従うものであり、そのパターンは宇宙全体の構造を示すもので、同じパターンが他の場所での運動や活動にどのような影響を与えれいるか知ることができる

われわれは、これから起こりうることを事実として知りたいのではなく、可能性として知りたいだけなのである

ガラスなど見たところ均質な物質の割れ方は予測不能であるが、興味深いことに、実験の精度を高めていくにつれ、結果の予測不能度は高まっていく一方だ

人間を人間にたらしめている当のもの、「自己」とか「理性」とか「主体」とか呼ばれているものこそが、最大の阻害要因ではないか

自分でもわかっているのだが、私はチェスやさいころ遊びに没頭しすぎたのだ。この遊びは長いことやってきた。チェスは40年以上、さいころは25年ほど。しかも、この期間は毎年、というのではなく、恥ずかしながら白状すると毎日だった。

すばらしい才能を持っていたからといって幸福な人生が送れるとは限らない。いや、むしろその才能のせいで人生が狂ってしまうことのほうが多いかもしれない。

運の悪い勝ちもあれば、運のいい負けもある

いくつかの事象の系列がある一点で出会うことによって、スーパーナチュラルな出来事が浮上してくる

予測不可能なもの、不条理が、われわれの心に揺さぶりをかけることによって、外在化するのである。心に思ったことは実際にも起きてしまうのだ

人を動かす秘訣は、この世に、ただひとつしかない。この事実に気づいている人は、はなはだ少ないように思われる。しかし、人を動かす秘訣は、間違いなく、ひとつしかないのである。すなわち、みずから動きたくなる気持ちを起こさせること―これが、秘訣だ

人間の持つ性情のうちでもっとも強いものは、他人に認められることを渇望する気持ちである

そう、人がもっとも望んでいるのは、「あなたはかけがえのない人ですよ」という一言なのである

この世の物事はすべて相対的なもので、それらは相互の関係性のもとでしか存在しえない

いいときはつねに未来は決定しているように見える

ルーレットでは、出た目はまた出るし、出ない目はいつまで待っても出ない

「気持ちがいい」とか「ハッピー」というのは、別のレールがもう一個あって、それは仕事で手に入れたり、成功で手に入れるものではないんだ

自分を解きほぐしてくれるもの、眠り、赤ちゃんに戻してくれるもの、恍惚、柔軟性、ぐちゃぐちゃにしてくれるもの

どうせ「この世は常ならず」なら、「がんがん楽しんじゃおうぜ」という考え方が優勢になってくる

だいたい物事の流れ(理)と自分自身とのあいだがギクシャクすると「病気」になる

人間はつねに自分以外のものに自分を託すことによって危機を乗り越えてきた

死は決して敗北でもなんでもない

われわれは人生の座標軸を、①幸運 ②普通(つつがなく) ③不運という三極で考えるべきなのではないか

未来が見えないとき、いったいどうしたらいいのか

自分で選択するべからず

世の中にはどうにもならないこともある

自分の身に起こったことをすべて必然と考える

われわれの社会では、起こることは起こるし、起こらないことは決して起こらない

たかが確率、されど確率

悪いことは連鎖する

思いは全部どこかでつながっている

いいながれには黙って従う

そう、そういう人々につねに偶然は微笑みかけるのである

以上、「偶然のチカラ」植島啓司(集英社新書)から抜粋

運を味方にすることができれば、人生は好転すると私は信じたい。

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