プロレス的作為は世に蔓延している
『プロレスまみれ』井上章一(宝島社新書)
読みやすい文体と私の好きな昭和プロレスがテーマだから、すいすい読めました。私より6歳年上、井上氏は著名な学者でありますが、プロレスに関するこのような本を書くとは、意外でした。井上氏は熱心なプロレス・ファンなのでした。そして、私も井上氏ほぼ同じ時期にプロレスに釘付けになっていたと言っていいでしょう。
そのプロレスですが、氏の成長とともにプロレスの持つ胡散臭さに気づきはじめ、そこから社会そのものを見ていくことになる。つまり、プロレスはテレビとは、力道山、馬場、猪木が全盛の時代、切っても切れない密接な関係にあったことが、氏の推測で解きあかされていくという論旨へ。
プロレスとは筋書きのあるドラマ、フェイクであるとは、ある時期から堂々と言われ始めるわけですが、この話はたとえ虚像であるにしてもロマンを求めたいプロレス好きとしてはなかなか受け入れられないし、そこを考えていくと底なし沼にはまっていく感じさえするのです。
実際は、氏がいろいろ書いているように、筋書きのあるドラマなんだと思います。まあ、それがどの程度まで組み上げられたものかは、当事者しかわからない話なのですが・・・。プロレスの持つ演劇性、祝祭性を感じれば感じるほどに、そうした部分は否めません。
でもプロレスファンはそうであっても、鍛え抜かれた強靭な生身の肉体で表現される演劇性、祝祭性に、よりいっそうの拍手喝采を送りたくなるのです。なぜならリングの上、ライヴでパンツ一丁裸でリングに立つのだから。やはりそれは、誰にでもできる芸当ではないのです。
たとえば、映画やテレビのように取り直し可能な場面場面を撮影する訳でなし、サーカスのように超人的な技を同じ流れ、シュチエーションで表現する訳ではないから。そこには即興性があるわけです。
目の前でリアルに繰り広げられる戦い故に、時には三沢光晴選手のように不幸な事件を起こすこともあり得る、死と怪我が同居している場所、それがリング。
プロレスラーという職業は並みではできない、超スペシャリストなのです。
ところで、井上氏は、社会の裏面の部分が、当たり前のように日々繰り広げられていることが、プロレスの舞台でも同じように裏面の側面が進行してている故に、プロレスは社会の鏡であると。プロレスはわざわざスポーツという外見を装わせながら、表現してきた。茶番の演出に勤める興行が、茶番を排除するべきスポーツのふりをする。そこにプロレスの逆説性があると。
また、井上氏は一方で、プロレスを否定する論拠の中に社会における矛盾点、茶番、胡散臭さを列挙する。なぜ社会的事象の茶番、矛盾はよくて、プロレスはダメなの?
まことプロレスは社会も鏡なのだと私も思う。プロレスは深いのです。だからプロレスを疑うということは社会そのもののあり方を疑うということ。さらに私は人生そのものも、と言いたい。
井上氏が、「プロレスでは、勝敗がはじめからきまっています。にもかかわらず、プロレスラーは、真剣にたたかっている風をよそおう。苦痛や怒りの表情を、演技的にうかべたりするのです。バルトは、そこに「神話化」のからくりを見てとった。その典型的なありかたがある、ととらえたんですね。そして、そのうえで、社会のあちこちに「神話化」を見ていくわけです。プロレス的な作為は、世に蔓延している、と。・・・これからは世の中を、あたかもプロレスでも観戦するかのように、読みといていく。」(「プロレスまみれ」井上章一著から引用)と本文で書いています。
ロラン・バルトのプロレスの神話化作用にもっと注目すべきなのだと私も思いました。この世の秘密の鍵はプロレスにあると言うのは、言い過ぎでしょうか(笑)
<本書での気づき>
政界、実業界、学会でも、うさんくさいところをうやむやにする力学はあり、どの社会でも作動する、それをプロレス観戦で噛みしめる⇒表と裏、うさんくささを乗り越えて、人々を魅了する魅力とは何か?それは姿勢であり、ハートなんだと思う。
プロレスまみれ (宝島社新書)