日本文化、感性の真髄は“陰翳”にあり

谷崎潤一郎「陰翳礼讚」

先週も書きましたがNHKの「100分de名著」で日本を代表する耽美派の小説家・谷崎潤一郎を取り上げていました。番組で取り上げていた谷崎の名エッセイ「陰翳礼讚」について私なりの観想を書いてみたいと思います。この本を読んでいると、昔の日本人の生活はどんなにか情緒的だったのだろうと、ある種の憧れ的な想いを馳せてしまうのですが、高度成長期の経済が飛躍していく時代に生まれた私にとって、はたして、その想いと心地好さが一致し得ることができるのだろうかという疑念も同時に湧いてしまいます。しかし、谷崎の文章を読んでいる限りでは、なんと日本の生活文化は奥が深く、その土地に根差しているものを作りあげてきたのだろうと痛感するのです。

そして谷崎がこの書物において何度も強調している生活空間や習慣などに見ることのできる“陰翳”は、どの部分が、どういいのかという細かい説明などはいらずに、直感的にその味わいのようなものが感性の深い部分に訴えかけてくるのがわかります。それは我々日本人の遺伝子に脈々と受け継がれてきたものに違いないからなのでしょう。

たとえば、谷崎はこんな話を書いています。日本建築の厠、それは母屋から離れて在って 廊下を伝わってそこへ行く。その厠は<或る程度の薄暗さと、徹底的に清潔であること、蚊の呻りさえ耳につくような静かさ>を必須条件としながら、<うすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺め>ながら用を足すこと。それが快感なのであると。<まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうに最も適した場所>と谷崎は書いているのであります。

あるいはまた、漆器の美しさについてを。それは現代のように電気による照明器具などない自然な光による部屋の明るさ、ぼんやりした薄明かりの部屋の中に置いてこそ漆器の美しさが発揮されるというのです。現代の電気的な明かりに比べ蝋燭の灯によるけっして充分ではない明るさの中で<膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する>というのです。谷崎はそれを<「闇」を条件に入れなければ漆器の美しさは考えられない……昔からある漆器の肌は、黒か、茶か、赤であって、それは幾重もの「闇」が堆積した色であり、周囲を包む暗黒の中から必然的に生まれ出たもののように思える>と書いています。

このように谷崎は、これも日本人が昔から持ってきた“陰翳”の感性ではないか?あれも“陰翳”の感性ではないか?と様々な例(女性の化粧であるお歯黒なんてものも登場する)を出しながら、日本文化、感性の真髄は“陰翳”にありと言わんばかりなのです。つまり、<美は物体にあるのではなく、物体と物体との作り出す陰翳のあや、明暗にある>というのです。

谷崎潤一郎の「陰翳礼讚」を読むことにより、日本文化に対する見方というか接し方をあらためて学んだように思いました。ただ、それも自国の本来の文化の特徴、有様なのに、どこか別の国の文化のように感じてしまう部分を内包している感覚は、近代化、西洋化の旗印のもとに私たちが持っている素晴らしい感性を置き忘れ、かなり遠くへ来てしまったのではないか、大切なものをもしかしたら置き忘れてしまったのではないか?と感じたのです。※<>部分、谷崎潤一郎「陰翳礼讃」(中公文庫)から引用

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