耽美派・谷崎潤一郎「春琴抄」の謎と魅力

NHK・Eテレで放送中の「100de名著」、この番組は面白く毎週みているのですが、先週は谷崎潤一郎を取り上げていました。耽美文学の雄としてしられる谷崎は、その文体もこれぞ日本語と言いたくなるくらいの美しさがあります。その番組の中で取り上げていた「春琴抄」、私らの年代では、一世を風靡したあの山口百恵と三浦友和が主演した映画が印象に残っています。この小説に触れることになったきっかけは10年前に女優・深津絵里が春琴を演じたお芝居をみたこと。この演劇ですが海外でも公演され読売演劇賞も受賞したなかなかの秀作で、原作も読んでみたいと思ったことによります。

小説「春琴抄」谷崎潤一郎(新潮社)

裕福な商家の家に生まれた盲目の少女・春琴、その家に仕える丁稚の佐助。春琴は天性のものがあるようで芸事が達者、佐助は商売の奉公とともに春琴の日常生活の手助けをするうちに自分流で三味線を身につける。やがて春琴が芸の方面でも師匠となって稽古をつけるようになる。やがて2人は一緒に生活を始めるが子供ができても、自分達の子供ではないとすべて里子に出してしまう。つまりそこには通常の家庭というものが形成されていないのだ。美貌で評判の春琴はある夜、熱湯をかけられその美しい顔を破壊された。佐助は美しい彼女の顔を記憶のなかに閉じ込めようと自らの眼球を針で刺し失明してしまう。春琴に危害を加えた犯人はわからない。2人は子供の頃からずっと師匠と弟子という主従の関係を生涯に渡り維持しながら、奇妙な生涯を終える。佐助の墓は春琴の墓にじゃまにならないよう控え目に建っている…。

とまあ、話の流れはこんななのだが、とにかく谷崎潤一郎の文章がとにかく美しいので、まず読み惚れてしまうのであるが、この小説は毒のようなものを含んでいる。サディズム、マゾヒズム、身分社会、妬み・羨望・嫉妬、犯罪行為といったキーワードでくくられる項目が底流に流れている。それらは登場人物の深層心理の部分にあって彼らの行動を支配している。 谷崎の文章があまりに上手いので、一種のロマンスのように感じてしまうわけなのだが<本当は怖い「春琴抄」>なのであった。ある意味異常な世界であると言っても過言ではないし、読んでいていろいろな見方ができる小説なのだ。傑作と呼ばれる所以がわかるような気がする

映画「春琴抄」(1976年)

■製作年:1976年
■監督:西河克己
■主演:山口百恵、三浦友和、津川雅彦、他

映画の主演をしているのは当時ゴールデンカップルともてはやされた山口百恵と三浦友和の二人、春琴と佐助を演じています。話の展開はほぼ原作の小説からはずれることなく展開されます。見る前は先入観でどうなんだろうな?と思っていたのですが、予想していた以上にしっかりと胸に染み入るように作られていました。特に春琴を演じた山口百恵、期待を裏切らない堂々とした演技で気丈で我が儘な春琴という役を演じていました。一方の三浦友和も奉公人にして弟子といういわば春琴より一歩も二歩も下がった姿勢の演技が光っていました。

さて映画では春琴と佐助の関係が急速に結び付くきっかけに地震というものを導入していました。大きく揺れる家、一人部屋にいる春琴、かなりの揺れだ。春琴は叫ぶ「佐助!佐助!」佐助は必死で彼女のもとに駆け寄る。すがる春琴。気丈で我が儘な春琴が佐助に気を許した瞬間であったようです。愛し合う心、寄り添う心、この映画を見ているとそうした男と女の理想的で純粋な姿をおおらかに讃えているように思いました。もちろん当時の芸能界のビックコンビなので意図的にそのようなイメージを抱くよう作られているのでしょうが、それには意外と仕掛けられたいやらしさがなく男と女のピュアな関係に見えたから、一層美しく「春琴抄」の話が見えました。

映画では気丈な春琴にこんな台詞を言わせていました。「人の情けに負けたら取り残されてしまう。我が儘をゆるして。泣き言は一切言わないから」と。もちろん春琴のバックボーンには不自由ない裕福な商人の娘というものがありそれが性格に影響しているとも考えられるのですが、芸の道において一流になるに至る根性も根っから持っているという解釈でした。

ちなみに、小説で描かれていない春琴に熱湯をかけた犯人ですが、映画では春琴に執拗に言い寄り、無理やり抱きつこうとして眉間を割られた津川雅彦演じる利太郎が、これまた春琴に少なからず文句がある不逞の輩を雇ってやらせたものとして描いていました。

「谷崎潤一郎『春琴抄』の謎」三島祐一(人文書院)と 「谷崎潤一郎ー『春琴抄』考ー」大里恭三郎(審美社)

谷崎潤一郎に関する文芸評論書を見ていると「春琴抄」に関する本が数冊でていることに気づきます。一つの小説を論じた本が数冊あるというのは大した作品であるということだと思う。そこで「春琴抄」について論じた本を2冊、図書館で借りて読んでみることとした。それによると、春琴の顔面に熱湯をかけ破壊した犯人は一体誰なんだという論争が繰り広げられていることがわかりました。確かに小説は犯人を特定せず、深読みによっていろいろな犯人が浮かび上がってきます。それを謎としてとらえるならば、その部分がクローズアップされてくるわけです。(そうしたミステリアスな部分を持っているところがこの小説の隠れた魅力の一つなのかもしれない)いろいろな犯人捜しの説としては、佐助犯人説、春琴自害説、両者黙契説などがある。

※以下、「谷崎潤一郎『春琴抄』の謎」三島祐一(人文書院)からの引用

・即ち谷崎は聖、なるがゆえに侵すべからずの美しさを損なうような苦労をさせてはならない、永遠な存在である母を春琴に形象化し、それに仕える佐助に自己を託しながら、丹毒のために母の美貌が醜く変貌したのを、佐助が春琴に熱湯を注ぎかかえることに変形(メタモルフォーゼ)し、作品の世界で性的快感を夢想するとともに、佐助の自己否定的失明を通してそんな、「瀆聖的な行為」や、前述の「逃避」に対する罪悪感を拭おうとしたのではないか。

・即ち犯人として疑わしき人物として、利太郎のぼんちや、師匠に生え際を傷つけられた某少女の父親や、商売敵である某検校や女師匠が挙げられているが、これらは佐助が多かれ少なかれ「陰険な方法」で仕組んだ穽と考えられなくもない。利太郎の催す梅見の宴で佐助不本意がに酒を勧められ、春琴の側を離れさせられたと作品にあるが、逆にそれに悪乗りして利太郎を犯人容疑者に仕立てることは容易であるし、後三者についても、春琴ともども双方の側をそそのかせば、そういう噂を立てさせることはないことである。そして春琴はといえば、前述の谷崎の言葉を引用すれば、「彼の弱点を握つてゐる女は、全く油断をし、心を許し、いよいよ傲慢な態度を続ける」とある通り、谷崎は春琴をして歯痛で苦しんでいる佐助の頬をいやというほど蹴らせている。作者の側に立てば、マゾヒズムが犯行に転ずる公式通りの組み立てを設定し、事を運ぶに足る陰険な契機をそれとなく挿入しているといえる。

・佐助犯行説や春琴自害説や春琴・佐助黙契説については、語り手の世界や春琴・佐助ストーリーに対して作者の世界を、主想に対して副想を、分けながら重ねあわせ、重ねあわせながらも分けて考えるべきであろう。平たく言えば、犯人は作品の上で語り手も明言し、読者も話のながれから誰もが考える外部の侵入者と考える。しかしそう決めつけてしまうには疑義が生じることから考えられる佐助犯行や春琴自害は、その可能性も考えられなくもないことを念頭におきながらも。それは語り手の世界からはみ出て考えられる作者の世界の思い入れとして、両者を重ね合わせることにによってより、一層深い『春琴抄』の読み方をすべきでないか。

・なぜ春琴は佐助正式に結婚しなかったのか。佐助との間に三男一女をもうけながら、女児は分娩後死んだため仕方ないとしても、なぜ男児は三人とも生んで間なしに手離して顧みなかったのか。これは難問中の難問で、『春琴抄』の中で一番理解に苦しむところである。……問いは……主想副想論の副想抜きには解き明かすことができないものであるが、作品本来の鑑賞法である作品の枠内にしぼって考えれば、春琴・佐助に用意された舞台は案外額面どおりの環境や土壌を持っているとはいえず、ただマゾヒスト佐助の徹底したエゴイズムと、それによってサディストに仕立てられ操られた春琴の芸術至上主義的ナルシストの劇からくる結婚否定ということで解き明かすほかない。

※以下、「谷崎潤一郎 ー『春琴抄』考ー」大里恭三郎(審美社)から引用

・火傷が佐助の犯行であっては、春琴に対する彼の愛は濁る。いや、愛は不在となる。それは春琴の火傷の顔よりも醜いエゴイズムである。これが外部者の犯行であるなら、自ら目を突いた佐助の行為は、それが彼自身のためになされた行為であったとしても、エゴイズムと呼ぶことは出来ないが、自分が盲目になりたいがための理由作りとしても春琴に火傷を負わせたのだとしたら、それはただの変態に過ぎなくなる。これが、佐助の犯行だとすれば、その後、彼が盲になったことを春琴喜びが「盲目の師弟相擁して」泣いたというクライマックスは、美しいどころか、欺瞞めいたものになろう。佐助が犯人であっては、変態とエゴイズムばかりが全面に出て、愛の献身とマゾヒズムが後退するのである。

・春琴の火傷が外部犯行であるならば、自らの目を突いた佐助の行為にはリアリティが認められなくはないが、火傷事件が春琴・佐助のいずれかの行為であった場合には、私もこの作品に興醒めを覚える。もし犯行が佐助によるものであるなら、それはエゴイズムによる加虐であり、もしそれが春琴の自害であるなら、それはエゴイズムに発した自虐であったということになる。いずれにせよ、それは二人の性癖に反する行為と言わざる得ないのであるが、仮に、前者であるとすれば、その犯人の佐助に感謝している春琴は惨めそのものであるし、後者であるならその春琴の脚本を実演した佐助は、自ら求めるマゾヒズムではなく、命じられたマゾヒズムの相貌を呈してくる。この作品が、愛する女性に熱湯を浴びせたとか、美女が熱湯を浴びたというのでは異常に過ぎる。それでは、この小説が保っている危ういリアリティが崩壊してしまうであろう。

・『春琴抄』において谷崎が書きたかったのは、火傷のあと、二人がこの不幸をどのようにのりこえていくかといという極めて厳粛な問題であり、その解決策は、佐助が針で目を突くという極めてユニークなものであったのだから、その上、火傷事件の犯人にまで意外性を与える必要はない。意外性の厚塗りでは小説が奇譚に堕してしまうであろう。

・谷崎文学において、作中人物の言を安易に鵜呑みにするのは危険であるが、犯人の意図に関しては、語り手と佐助の推測が一致しているのであるから、これは真実を捉えたものと解釈して差し支えないのではあるまいか。……谷崎にしてはくどいまでに繰り返されるこの犯行意図を正当に読み取るなら、おそらく、春琴の火傷は、春琴と佐助の二人に対する残酷ないやがらせだったのである。そして二人は、その賊に対して、見事に肩透かしを食わせた。『春琴抄』は、春琴と佐助が愛と知恵とを持って、賊を見返す物語なのである。

・固有名詞をもって作品に登場しているのが利太郎一人であることから推しても、犯人は彼以外には考えられない。春琴の家の構造を知っていたのも、……(他の容疑のある人物の中で)たぶん利太郎だけだったのではなかろうか。消去法でいっても、最後に残るのは利太郎だけなのである。

朗読CD「春琴抄」(新潮社)

小説を俳優の寺田農が朗読したCDが新潮社から出ていてそれを聞きました。小説を片手に耳からプロが読んだ音を目で追いながらという朗読を聞くという行為は、単純に本を読むのとはまた違って新しい発見や読み落としていた細部などが浮かび上がってきて意外と愉しい経験なのであります。その俳優の朗読を聞いていると流石プロだなと感心させられることもいいもんです。よく舌が回ると思うし、それだけでなく情感もタップリに漂わせて読むのですから。話す、読むという誰でもできる行為だからこそ、その技術の難しさを聞く方は実感しやすいというものです。

今回、朗読された「春琴抄」に触れて思ったことは、評論家達が<春琴抄論>として谷崎の小説を論じるにあたり、春琴を襲った犯人は誰か?という論争を繰り広げていることがいろいろ調べてわかりました。しかし、朗読に触れてそうした評論家による犯人探しはあまり意味がないのじゃないかということです。あくまで大切なのは春琴と佐助という宿縁で結ばれた奇怪といえば奇怪な、<彼、彼女>にとっては、<彼、彼女>以上の関係はなかったのではないかといった作品世界そのものを味わうとことこそやはり本筋なのではないかということです。あまりそこにこだわっても作品の素晴らしさは見えてこない、そんな気がしました。そこで、朗読によっての気づきをいくつかピックアップしました。

・春琴が死んだ歳は58歳、一方、佐助が死んだ歳は83歳。佐助は春琴が死んだ歳よりも25年も長生きしたことになる。それは盲目も期間を25年も生きたということになる。その間、佐助は常に春琴を想って生きたとあるが、それはあまりに長すぎる時間ではなかったろうか?

・その一人で生きた間、佐助は春琴の姿を<次第にうすれ去る記憶を空想で補って行くうちに此れとは全然異なった一人の別な貴い女人を作り上げていた>のだろうか?それともありありと思い浮かべることができたのだろうか?<琴女の閉じた眼瞼にもそれが取り分け優しい女人であるせいか古い絵像の観世音を拝んだようなほのかな慈悲を感ずる>とあるように、晩年の佐助にとっての春琴の残像は<二十一年も孤独で生きていた間に在りし日の春琴とは全く違った春琴を作り上げ愈愈鮮やかにその姿を見ていたであろう>と、より観音様に近づいていったのかもしれない。

・<十一歳の少女と十五歳の少年とは主従の上に今又師弟の契を結びたるぞ目出度き>とあるのは、春琴と佐助は宿縁にして良縁であったことを意味している。

・春琴の我が儘放題の態度とそれに従順に仕える佐助。その二人には子供もできたが直ぐに里子に出してしまった。そんな春琴に奉公人は<あれでこいさんはどんな顔をして佐助どんを口説くのだろう>とひそひそ話も。<然らば春琴の佐助を見ること生理的必要品以上に出でなかったであろう乎多分意識的にはそうであったかと思われる>との叙述もみられる…。

・春琴は佐助を<汝人間に生まれながら鳥類にも劣れりと叱咤すること屡々なり>。そこまで言われて我慢できる佐助は何者ぞ?

・実は「春琴抄」の中で結構キーになる文章がこれではないか?<されば佐助に憎しみをかけ春の美貌が一朝恐ろしい変化を来たしたら彼奴がどんな面をするかそれでも神妙にあの世話の焼ける奉公を仕遂げるだろうかそれが見物という全くの敵本主義>

・佐助が目を潰し春琴と抱き合った瞬間、彼は<今迄肉体の交渉はありながら師弟の差別に隔てられていた心と心とが始めて犇と抱き合い一つに流れていくのを感じた>。よかったなあ、佐助。もし逆効果になったらそれこそ目もあてられない。

・<誰しも眼が潰れることは不合せだと思うであろうが自分は盲目になってからそう云う感情を味わったことがない寧ろ反対に此の世が極楽浄土にでもなったように思われお師匠様と唯二人生きながら蓮の台の上に住んでいるような心地がした>佐助・談

・<人は記憶を失わぬ限り故人を夢に見ることができるが生きている相手を夢でのみ見ていた佐助のような場合にはいつ死別れたともはっきりした時は指せないかも知れない>

※<>部分、「春琴抄」谷崎潤一郎(新潮文庫)より引用

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