真の英雄的行為の外観は悪の外観で現れるという・・・

映画「ダークナイト」(2008年)

■製作年:2008年
■監督:クリストファー・ノーラン
■出演:クリスチャン・ベール、マイケル・ケイン、ヒース・レジャー、ゲイリー・オールドマン、

前回の記事に続き、思想で読む映画論トッド・マアガンという方による本「クリストファー・ノーランの嘘」(フィルムアート社刊)による映画「ダークナイト」の読み解きをまとめてみようと思います。

その前にこの「ダークナイト」でインパクトを見せるのはジョーカーの究極の選択を迫ってくるその存在感。この善悪の彼岸にいるかのような恐るべきキャラクターは、その後の映画「ジョーカー」へと繋がっていくかのような不気味な感覚を出しています。この規制の枠組みから外れた超存在ともいえるジョーカー、これが強烈なのです。私はこの映画のジョーカーの存在感が一番印象に残りました。

さて、マアガンによるとこの「ダークナイト」では超法規的行為の犯罪性の問題を取り上げているといいます。法は、正義の実現のための必要十分条件ではないということを、バットマンやジョーカー、そして地方検事のデントというそれぞれの価値観を持ったキャラクターの衝突により描いているというのです。スーパーヒーローは、正義を行う際、法の外側もしくはその周縁において活動をすることになる。スーパーヒーローは法を破る犯罪者と闘うが、自身を法と重ねることはできない。それゆえヒーローが被るマスクにより、フィクションという嘘の仮面を被ることになると。

つまり法の脅威を抑えるためには超蜂起的行為が必要なのだと・・・。それは例外という行為、法の制限を超えて法を侵犯する行為となる。その際、ノーラン監督は、誠実で正義感溢れる地方検事デントというキャラクターを持ってきて、表の世界の正義的行為を示して見せます。しかし、ジョーカーの罠にかかり、究極の選択を迫り愛する女性を失い、自身の顔半分がやけどで崩壊してしまうと、反転、別人格の人間が芽を吹き出し殺人鬼に変容してしまう様子を描きます。デントという存在はマスクなしのヒーローになれたかもしれないものの、喪失を経験することで犯罪者に転向してしまうのです。

ヒーローは嘘をつかなくてはいけないのである、とマアガンは評しています。よって映画のラスト、バットマンは悪に転落したデントの罪を自ら背負うことで幕を閉じます。「ノーランの映画は、真の英雄的行為の外観は悪の外観で現れることを示している」のだと。そこで強烈なキャラクターであるジョーカーは悪役というより「真実の基底を持たない純粋なフィクションーあらゆる現実性を欠いた完全な外観ー」として存在しているといいます。たしかに映画を見ている限り、彼の出自はまったくわからないし、口の傷も相手を変えてその由来を変えている。ジョーカーには隠すべきものが何もない、という事実を隠しているゆえに、実際の人物は存在しないとまでマアガンは書いています。

この映画は、英雄が英雄的な外観で現れるという考えを切り崩している。・・・・映画は、マスクなしの英雄ーより正確に言えば、悪のマスクなしの英雄ーは存在しないということを示している・・・・悪のマスクがなければ、善は現れ出ることができず、また利害関係の計算の論理に捕らわれたままである。悪のマスクがなけでば、善は策略的であり続ける。(以上、トッド・マアガン著「クリストファー・ノーランの嘘」フィルムアート社刊から引用) 

小難しく書いているけど、私はそこに漫画の「タイガーマスク」を思い出しました。タイガーマスクの虎の仮面の下は弱い者の味方で心優しき伊達直人、しかし、リング上では反則の限りを尽くす悪の権化としての虎の仮面だった。基本、タイガーマスクはヒーローもの。そこに闇があるからこそ光も輝くということなのかもしれません。

しかし、マアガンの本による読み解きは結構大変(笑)と、いうことでこの試みはいったん終わりにします。

クリストファー・ノーランの嘘 思想で読む映画論

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