平将門は大怨霊ではないという話とその聖地

「鬼門の将軍 平将門」(高田崇史)と将門の聖地

もう10年以上は前のこと、私は平将門について、たぶん荒俣宏氏の「帝都物語」がきっかけだと思うのですが、面白いなと興味を持っていたことがあります。その時にいくつかの本を読んだり、ゆかりの神社に行ってみたりしました。

一番の魅力は加藤剛が、将門を演じた大河ドラマ「風と雲と虹と」のDVDを見たこと。将門は朝敵となっているのであまりドラマ化されることはありません。貴重なドラマでした。そこに描かれていた将門は、朝廷に反逆する将門ではなく、悪政で苦しむ民衆のために武士の頭領として立ち上がる心優しき将門でした。

この小説「鬼門の将軍 平将門」は、正直けっして面白いといえるようなものではないですが、大怨霊とされた将門は実はそうではなくて、民衆のから愛される存在だったということを描くために、将門伝説を使って描いたものです。

大手町の将門の首塚

そもそも平将門は大怨霊として大手町の首塚の祟り伝説を作ったのは明治になってから。さらに成田山は平将門を調伏した寺社として将門とは相対する立場にあるように思われているが、そうではないということを、小説の謎解きの中に盛り込んでいます。では真相は?というとということで、簡単な流れを以下に記してみました。

坂東の「将門まつり」という盆踊り(私も参加した)

●平将門を大事にする江戸っ子は、その将門を国家反逆として調伏した成田山には参拝しなかったというのは、その逆であり、歌舞伎の團十郎によって成田不動信仰が広まり、大人気を得ていた。江戸っ子が将門調伏を行った神社仏閣に参拝してはいけないとなると、ほとんどの寺社に行けなくなってしまうことになる。朝廷と手を組んでいる明治政府は、江戸幕府が擁護している将門と構図的に対立する関係にあった。

●明治政府はとかく江戸幕府や江戸っ子が嫌いだったから、それまでの江戸の風習に様々なストップをかけた。その中の二つが将門信仰と成田山詣でであると。江戸っ子は、将門が好きで、歌舞伎も好きで、実は、成田山参拝にも憧れていた。そこを分断させるため、将門は少しづつ怨霊化されていくことになった。

●怨霊を祀る神社は、怨霊を避けるために①参道が折れ曲がっている  ②参道が川を渡る  ③境内あるいは本社の入口付近に見張りがいる、という特徴があるが、坂東市の将門を祀る国王神社⇒鳥居から一直線、社殿の扉も開け放たれている⇒将門は自由に出入りできる。同じく坂東市の神田山の延命院にある将門の胴塚⇒カヤの大樹に抱かれるようにある。

●明治政府は、天皇を中心に置いた⇒天皇の位を狙った将門はもってのほか⇒明治政府の教部省から神田明神に将門を主祭神から外すようクレーム⇒氏子たちの猛抗議⇒将門を第三座に祀ることで落ち着く。

となると、「平将門は大怨霊ではない」と。

●将門は身長七尺、五体は悉く鉄だったという言い伝え。将門は鎧で身を固めていた。将門の胴塚のある神田山⇒昔は片目のことを「かんだ」と呼んだ⇒目奇(かため)明神⇒日本史において片目を指す職業があり、古代製鉄たたら従事者を指す⇒彼らは火炉の炎を見続けため、大抵目をやられた⇒「かんだ」も「かぬち」からきているという説もあり、「かぬち」とは鍛冶のこと。⇒全国の製鉄民が崇敬していた神が、牛頭天王でありスサノオノミコトであり将門と製鉄キーワードで結ばれる⇒同じく、製鉄民がとても信仰していた仏尊が不動明王⇒成田山の鎮守である清龍権現堂・妙見宮の龍はスサノオノミコトであると同時に不動明王。 坂東市の八坂神社の主祭神はスサノオノミコト⇒将門とスサノオノミコトが結びつく。

●胴塚がある神田山の延命院は不動堂だった⇒将門を祀る石碑があり「大威徳将門明王」、その上の梵字のカーンは不動明王⇒横浜にも延命院があり正式名称は成田山横浜別院延命院。

●新宿の稲荷鬼王神社の主祭神は将門⇒ここの節分は「鬼は内」⇒成田山新勝寺の節分も「鬼は内」

となると「平将門=成田山」であると。

このような積み重ねで、平将門は怨霊ではあったかもしれないが、日本三大怨霊と言われるほどのものではなかった。明治入りそのイメージを作られていったというのが、この小説の内容です。

少なくともこのような伝説の上にさらに伝説が加わる、誠に稀有な武将であったことは間違いないのでしょう。プラスもマイナスも含めて強力な存在、それが平将門。日本史におけるスーパースター!

鬼門の将軍 平将門 (新潮文庫)

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