自由とは自らを攻撃するパラドックスがあるということ

「マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ」を読む

今最も注目される哲学者とされる人物がマルクス・ガブリエル氏。以前にも彼の本を読んだのですが、哲学書だけあって、なかなか難解。彼の説く「新実在論」は、世界は存在しないということ。

リアリティをすべて包括するような全体=世界は存在しないということだ。意味の場というのがあり、私たちは無数の意味の場に生きている。ガブリエル氏によると、想像上の生き物である一角獣は、それを意味のあるものとしてイマジネーションする場合、一角獣は確かに存在するのだと。

ところで今回読んだ本は「欲望の時代の哲学2020」というNHKで放送された番組が書籍化されたもの。ガブリエル氏が、ニューヨークで語ったものを中心にまとめたもの。その番組も見たのですが、話が飛んでいるのか、ある前提の上で話をしているのか、とても面白かったのですが、難しかった。あたらめて本を読むがやっぱり難しい・・・。

そんな状態ですがせっかくなので、私なりに考えてみた。この本の中では、今話題鵜になっているネット上の誹謗中傷についても通じるような話も語っている。自由ということについて。

意志とは自分自身の見方に照らし行動する能力のこと、そして、自由意志とは意志の調整の最適化であると。つまり自由意志とは、自分の行動が他人にもたらす影響に照らして自分自身を考えられる能力であり、その行動がとれる能力なんだと言います。

しかし、人間の自由は絶えず自らを攻撃するというパラドックスが存在している。ネットが発達し、人類がこれほどまでに多くのことを知っている時代はかつてなかったが、一方で、これほどまでに知る能力について疑っている時代もなかったと・・・。

ガブリエル氏はネット、特に検索やSNSといったGAFAと呼ばれる巨大組織を批判し、私たちがそれを利用するのは、無償で彼らにデータを生産し情報を提供している労働者になっていると言うのです。検索に費やす1分は無報酬で仕事をしているのだと。

自由意志により私たちはSNSを利用するわけですが、それらは一方で、自由が搾取されているというのです。その世界では、法の支配によって守られておらず、オンライン上で、アナログの公共の場ではやらなうような攻撃をできるため、必然的に民主主義を損なっている。さらに意見の相違をオンライン上では解決する合法的な方法はないとも。

自由であるということは、自由に間違ったこともできるということ。自由であるということは、それ自体、正しいことをするという保証ではない。ガブリエル氏はそのように発言しています。自由であるということのパラドックスですね。

また、ガブリエル氏は人工知能(AI)を否定しています。AIは道具であり知能は存在しない。それは地図とリアリティの関係と同じで、実際に旅行に行くのはAIではなく人間なんだと。

こうしたことは、ドイツの哲学者ゆえ、歴史的な経験=ファシズムへ警鐘がどこかにあるように思います。今回、コロナ禍により、オンライン化、新しい生活様式が叫ばれていますが、上記のネット、AIを突き詰めていけば、超管理社会へ向かっているような気がします。私たち日本も過去にファシズムに流れた経験があり、一様に同じ行動をとりやすい民族なので、そこは気を付けていく必要があるように思います。気を緩めればほんとにマトリックスのような社会になってしまう危険が潜んでいると思います。

他者を受け入れること。ガブリエル氏の発言の中で、日本への提言として、『ある程度は移民国になってみてはどうでしょうか。他者性は財産であると考えてみてください。そこから新しいことを学ぶことができるからです。

なかなか日本社会は、わかりました、そうですねとすぐには動けないのですが、どこかで管理がひたひたと忍び寄っている気がしなくもないので、多様性、他者性は大切なキーワードのような気がします。

しかしここへきて、なんか支離滅裂でバラバラなことを書いてしまているような気がしています。ガブリエル氏の論調が、私にとっては、難しいということが分かったということです(笑)

マルクス・ガブリエル 欲望の時代を哲学するⅡ 自由と闘争のパラドックスを越えて (NHK出版新書)

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