神は沈黙することにより精神は寒々と「冬の光」

映画「冬の光」(1962年)

■監督:イングマール・ベルイマン
■出演:イングリッド・チューリン、グンナール・ビヨルンストランド、マックス・フォン・シドー、他

ベルイマンのこの映画の原題名は「聖体拝受者」で、日本公開でのタイトルは「冬の光」となっています。やっぱり「聖体拝受者」じゃ、キリスト教が隅々まで浸透している国ではないので、ちょっと難しい感じがします。だから「冬の光」というタイトルになったんだな。

たしかに大事な場面で冬の光は確かに差し込んでいるから。

「聖体拝受者」とは、キリスト教の儀式である聖体拝領で、イエス・キリストの体と血を象徴するパンとぶどう酒をいただく信者のことです。聖体拝受は、キリストとの霊肉の一致を深めるための重要な儀式というわけです。

映画は一貫して神の沈黙がテーマとして流れています。神は存在するのか否か?私にとって正直、神の沈黙とか神の不在とか言われてもピンとこないものがある。それでも、劇中において教会守の男が神父に投げかけた言葉、キリストの受難の話についての話。一体キリストは十字架に磔にあっていた時何の苦しみがあったのだろうか?肉体的な苦しみは時間にして短い。それ以上の苦しみは実は、神の沈黙を前にした揺らぎであり懐疑心であったのではないかという問いや、悩む神父の告白、それは自己都合の自分だけを愛してくれる神を作りあげていたこと、神は存在するのか、人生に意味などあるのかなどと聖職者でありながらそれを否定する場面などを見ていると、まじめに考えているんだなと、すこしばかり、理解も進んだ気がする。

ちなみに、ラストにおいて神の沈黙あるいは不在に悩む神父のトマスの愛人?であったマルタ、神父のエゴによってボロボロにされてもついて来る哀れさを体現していたマルタのためにミサをあげる「全能なる主のいと聖なるかな。神の栄光はあまねく大地に満ちて…」それで映画は唐突に終わってしまいます。はたして神の不在あるいは沈黙で悩み苦しむ神父はその時どこの境地にいたのでしょうか。それは職業上のみの魂の入っていない行為にすぎないのか?それともまだ信仰の力は残っていることからの振り絞った言葉なのか?あるいは絶望の表現を、皮肉を込めて映し出したのか?ベルイマンは明解な答えを出さず、厭世的な空気を残したまま、見るものにその問いを投げかけるのみなのでありました。

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