現実と虚構がわからなくなる恐怖「イグジステンス」

映画「イグジステンス」(1999年)

■監督: デヴィッド・クローネンバーグ
■出演:ジェニファー・ジェイソン・リー、ジュード・ロウ、ウィリアム・デフォー、他

デヴィッド・クローネンバーグ監督の「イグジステンス』は、ゲームのヴァーチャルな世界に入っていくという話ですが、それがどこまでがヴァーチャルの世界なのかが、はっきりしない、現実との境界が非常にあやふやと言う構造になっています。

この「イグジステンス」ですが、実は公開があの「マトリックス」と重なってしまい、「マトリックス」の圧倒的な話題性に隠れる形となってしまいました。「マトリックス」がそれこそ、アクションやビジュアルで観客を惹きつけ物語の展開も含め映画史にその名を残すことになったのに対し、クローネンバーグの「イグジステンス」は感覚的な気持ち悪さ、地味でB級的な印象を与えてしまったことも、光が当たりづらかった一因の一つとしてあるかと思います。確かにクローネンバーグの演出はCGの多用もなく、流麗なカメラワークもないので地味さが目立ってしまうのですが、それが逆にクローネンバーグの良さでもあるといえると私は感じる部分がのですが。

たことも、しかし、この「イグジステンス」も、今日振り返ると、この作品は人類が直面しつつある「VR」「メタバース」「AI」的現実をすでに予見し、その不安を生理的かつ哲学的に掘り下げた先駆的な映画であったことが浮かび上がる。ここでは、本作が提示した「現実と虚構の境界」「存在とは何か」という問いを整理しつつ、賛否両論の評価、そして『マトリックス』との比較を通じて、クローネンバーグの先見の視点を考察してみたい。

タイトルの「イグジステンス」は存在=xistenceを、じったものであり、ゲーム名であると同時に、映画全体のテーマを凝縮した言葉といえる。観ている側は、まず、ゲームの世界がいかにもと言う感じではなく、限りなくリアルに近いので、それがヴァーチャルの世界ということの判別がつくづらい。さらに今いる世界がゲームの世界と想ったら、さらにその上部のゲームがあって・・・・・・というヴェーチャル構造が多層になっつていて、どれが現実なのかがわからなくなってくるという始末だ。

今いる世界が、リアルな現実だと思っていたら、実はヴァーチャルな世界だったということになってくるので、ずっと夢の世界をさまよい続けているということにもなりかねない。これは「裸のランチ」をさらに突き詰めたものと言えなくもない。

また、ゲームの世界に行くにはポッドというまるで肉の塊のようなブヨブヨしたものを操作しなければいけないし、そこから延びたまるでヘソの緒のようなケーブルを背中に開いた穴にさしこみ脊髄と直結させなければならないというクローネンバーグらしい仕組みになっている。
この現実はより身体的とも言えるし、その先のバーチャルな世界はもっと身体的とも言える気がします。

技術によって肉体や精神が変容していくというクローネンバーグ的世界を表しているわけですがAIの登場により、そうしたこともまんざらではなくなりつつあるという世の中になってきているので、もしかしたら予言的な映画なのかもしれない。

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