自己実現と自己逃避~カフカ「断食芸人」

ファスティングというものが流行っています。つまり、断食です。飽食の時代、ファスティングによって体を浄化させるというもの。私も三日間、断食を経験したことがあります。経験では、二日目は糖の不足で頭が痛くなり、三日目は空腹感をあまり感じなくなり、体が軽くなり、気持も体も覚醒しているなという実感をしたことがあります。しかし、人にとって食べないという行為は、とても大変なこと。

カフカの短編小説に「断食芸人」という作品があります。断食を芸にしている男が主人公。彼は見世物小屋において長期間の断食を行い、それを見物人たちに見せることで生計を立てている。しかし、彼の断食芸は次第に時代遅れになり、観客の関心も薄れていきサーカスに身を投じる。しかしサーカスの観客は彼に興味を持つことはなく最終的に彼は、自分の行為が理解されないまま、衰弱して死んでしまう。彼が断食を続けた理由は、実際には「自分の好む食べ物を見つけることができなかった」という不思議な話。

芸人が檻の中で断食を続ける姿は、彼が断食に身を任せ、ある意味で、自己の実現を追求する場でもあったと言えるのが、一方で、現実から逃避する場でもあったといえる。何もしないことと引き換えに、断食をする。その断食に人々はびっくりする。つまり、檻は彼にとっての、逃避の場でありながら、自己実現の場でもあった。

断食芸人は断食を、芸として人々に見せることで、驚嘆を引き起こし、自己の存在を証明しようとしたのだが、この驚嘆こそが彼の落とし穴となった。芸が下火になって、人々が彼に注目しなくなったとき、本当はもっとできるんだと、サーカスの檻の中に身を投じ、再び世間を驚かせようとする願望からでしたが、運命の女神は、微笑みませんでした。

彼の芸は理解されないまま終わったといえる。いや、何も食べないということが芸になる得るのかという疑問も残る。芸人が檻の中で行った断食は、食べるという本能的な欲求を意志の力で拒否すること。本能からの脱却なのですが、現実は、注目をあびることもなく、お金にもならず、動物以下の扱いを受け、本能のままに生きる、後釜で檻に入った豹よりも魅力のない存在へなってしまう。

「断食芸人」の物語は、俗的な意味で、社会的有用性を持ちえない芸術家が、自己の作品に捧げる献身と、その献身が報われない悲劇を描くと同時に、芸術家が自己のアイデンティティを証明しようとする過程で感じる孤独と疎外感を表現していると見ることもできるだろう。

ところでこの「断食芸人」、現在、ガザ地区へのイスラエルの攻撃が問題になっているパレスチナ。1960~70年代、パレスチナ解放人民戦線に加わり、ゲリラ隊を題材とする映画『赤軍-PFLP 世界戦争宣言』を監督し、日本赤軍に合流し、レバノンで逮捕され、日本に強制送還された足立正生監督が、2016年に映画化をしている。

残念ながら映画は、意味があるのかと言いたくなるコメディともとられるような映像と反帝国主義的ともいいたげな映像が突然挿入され、断食を見張る男がいて、なぜか迷彩服を着て銃を持っている、など、時代における違和感を禁じえなかった。映画の主人公は、勝手に座り断食を始め、周りが騒ぎ出し、本人の動機は語られぬまま。映画と小説は違うが、断食を通して、他者の視線という共通テーマが見え隠れした。

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