大正ロマン:宵待草のやるせなさ★竹久夢二

特に専門的な美術の勉強をしていないにも関わらず、日本の美術史に大きな痕跡を残した大正時代の天才芸術家、竹久夢二。彼の作品は、多くの人々を魅了し続ける「夢二式美人」で知られていますが、その美しさには彼自身の波乱に満ちた人生や、複雑な感情が色濃く反映されています。

まず、竹久夢二の絵の代名詞である「夢二式美人」。儚げで繊細な美しさ、細長いプロポーション、そして大きな瞳に柔らかな表情…。これらの要素は、夢二が抱く理想の女性像を投影しているのかもしれません。この夢二の描く女性に見るものが惹かれるのは、ただの美しい存在ではなく、彼自身の内面的な孤独感や、人間関係に対する複雑な感情も感じることができて、その微妙なバランスが心を深く捉えるのです。

竹久夢二にはよく知られる3人のミューズがいて、彼の作品に影響を与えました。一人目の、たまき。彼女は、夢二の最初の妻で、彼の初期作品に登場する女性像のモデルでした。夢二の浮気が原因で離婚。たまきとの別離は、夢二の作品に孤独感や儚さをもたらしました。

二人目は彦乃。夢二の恋人で、彼女の儚げな美しさは、夢二の美人画に大きな影響を与えました。彦乃はわずか25歳でこの世を去り、作品には深い哀愁が漂うようになりました。

三人目はお葉。お葉は、藤島武二や伊藤晴雨ら画家のモデルとも知られ、夢二は絵のみならず、多くの写真も残しているが、二人の関係は長く続かず、お葉は別の男性と結婚し一生を送ったそうです。恋多き夢二、3人の女性は、夢二の絵画に多様な影響を与えたと言われています。

そんな、夢二は以下のような言葉を残しています。

女といふ女から
逃れるために来た旅だが
見知らぬ街を歩く時
いつか眼が女を探す。

夢二は画家のみならず、マルチな才能を見せ、詩人としても高く評価されている。特に「宵待草」という詩は、彼の感傷的な世界観を象徴する作品として広く知られている。1917年には、作曲家・多忠亮によって楽曲化され、大正時代の日本で広く親しまれました。哀愁漂うメロディーと共に、「宵待草」は今でも日本の伝統的な歌曲として愛されています。

ちなみに、“宵待草”は、植物名は正しくは、待宵草というそうで、夢二が取り違えたらしい。

夢二の美的感覚は、現代でいえばグラフィック・デザインの分野にまでおよび、彼のデザインしたポスターや雑誌の表紙は、今でもその独創性で高く評価され、竹久夢二展などの展覧会では必ず展示されている。

竹久夢二は、後世のクリエイターたちに影響を与え、夢二を題材にした小説や映画も数多く制作され続けています。たとえば、独特の映像表現を見せる鈴木清順、彼が監督した映画『夢二』は、通常の映画のようにストーリーを追うことが難しく、脈絡のないイメージの羅列、奇妙な登場人物たちの会話、これらはまるで夢の中をさまよっているかのように、観る者を混乱させます。しかし、この混乱こそが清順の狙いであり、夢二の内面的な世界を映し出す新しいビジュアル・コミュニケーションの形なのかな、と想像してみたりする。

最後に、『寺内貫太郎一家』、『時間ですよ』といった伝説的なテレビ番組を作った、あの久世光彦も『へのへの夢二』という小説を書いている。久世は夢二に関して過激な言葉を残している。

“夢二の四十九年の歳月は、覚醒することのない、長い長いモルヒネ中毒の日々だったのではなかろうか。モルヒネの成分は<女>と<絵>だったに違いない。その副作用が<悪名>と<貧乏>だった。いつも視点が定まらないまま、目が泳いでいた。足元が覚束なくて、ときには泥水の中を這って歩いた。女に溺れて<色情狂>とまで言われて蔑まれた。そのくせ、自信のない絵だけは描きつづけた。・・・・・いまとなっては豆粒の悪あがきかもしれないが、モルヒネが呼び起こしてくれた果てのない<幻>は、何にも増して甘美だった。だから世間の常識や、義理や人情には目を瞑って逃げ回った。目さえ瞑れば、そこには四季の花々が咲き乱れ、果樹の枝には熟れきった女たちが風に揺れていた。―これをモルヒネの罪と言ったら、罰が当たる。”

ここまで、久世に書かせた、竹久夢二は、類まれな画家だったのである。

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