映画「箱男」、箱男化は加速しているのか?

映画「箱男」(2024年)

■製作年:2024年
■監督:石井岳龍
■主演:永瀬正敏、浅野忠信、佐藤浩市、白本彩奈、他

石井岳龍が安部公房の「箱男」を撮った。27年前に安部公房から映画化のOKを貰うも、クランクイン前日に突如、企画が頓挫した幻の映画という。だが、石井監督はそれを忘れることなく、安部公房生誕100年に合わせて、作品を完成させたのだと。石井岳龍といえば、私が学生の頃、8ミリのフィルムで映画を作るという自主制作映画というものがあって、そこから彗星のごとく登場してきた人物。1980年「狂い咲きサンダーロード」という異色な映画でメジャーデビューを果たし、その存在を知った。

原作の安部公房の小説は難解だったので、石井監督がどのように描くのか、興味があった。自らの存在を消し、匿名性の存在となり、社会性も消し去る、箱の中から覗く私。映画を見ていて思ったのは、箱男が箱男でいられるのは、箱の中から世の中を覗き監視し、箱男としての私が世の中を斜に構えて、気ままにいられ自由なのだと語る。

でも、一見、社会的束縛からのがれ、自由なんだと思っている、箱男自身が、私の存在としての証としてメモが重要性を帯びており、さらには、箱男のルールなるものを作り出し、一つの街には一人の箱男でいいのだと、箱男同士の戦闘を始める。結局、自由のつもりが、箱の外の世界と同じ状況になってしまっているのではないか、ということ。

それは、映画で名前を持って登場する葉子という女性を見て感じる。彼女は現実感なく謎めいているのですが、箱男にかかわりながら、箱には全く興味がなく、もういいかげん外にでてきたら?という感じなのだ。箱に執拗にこだわる男とは違い、でもアホらしいとならずに、 箱男に翻弄されつつも、 男たちに付き合っている。そこに、ある種のしなやかさと女神性のようなものを感じた。

ところで小説でも映画でも描かれていたのですが、にせ箱男のにせ医者が、看護婦・葉子に浣腸を要求したり、四つん這いになってくれと要求するシーンがある。印象としては唐突感がある。なぜそうしたことを描いたのか?ということが気になった。はっきり言えないのだが、精神分析のフロイトによると、幼児の発達段階に肛門期というのがあり、この時期に固着すると、過度に秩序や清潔さを重視する性格が形成されることがあり、完璧主義的な傾向を持つ場合があるという。あるいは、他者に対する過度な要求や批判的な態度として表れることがあり、自分の基準に他者が達していないと感じると、強い不満を抱きやすくなるという。

フロイトの精神分析に影響を受けたシュルレアリズムに、安部公房は影響を受けたと言われているのでフロイト的解釈を導入し、上記のような性格を持ったのが現代社会なのだと、暗に示していたのだろうか?秩序や清潔さを重視し、他者への欲求が強いゆえに、そうした現実の重みから無意識に反転していきている現代人こそ箱男なのだというように・・・。

映画では、箱男とはあなただ、と一瞬映画を見ている観客や多くの箱男が並ぶシーンが挿入されてくる。SNSのマイナス的側面を見るにつけ、箱男化は、私を含めて、加速化しているのかもしれない 。

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