壁とどう向き合うか安部公房の「砂の女」は問いかける
安部公房「砂の女」
安部公房の小説「砂の女」は、私が生まれた翌年の1962年に発表された作品で、日本文学の代表作の一つと言われています。「砂の女」の主人公は、昆虫採集を趣味にしている無名の中学校教師。彼は、夏季休暇、砂丘地帯で昆虫を探しているうちに、村人たちに騙されて砂に囲まれたすり鉢状の穴の中の家に閉じ込められてしまいます。その家には、名前も明らかにされていない「女」が住んでおり、彼女は日々、砂が家の中に入り込まないようにするため、絶え間なく砂を掻き出す作業を続けています。
男は、この砂で、できたすり鉢状の穴から、必死に逃げ出そうとしますが、砂は思ったより手ごわく、その努力は無残にも無駄に終わってしまう。「砂の女」は、抽象的な小説で、不条理で、まるで、蟻地獄のような砂は、何を象徴しているのか? この砂の地獄は、閉鎖的状況における人間の心理や、自由と拘束など、様々なことを表していると思われます。最終的に、男は外の世界に戻る機会を得るものの、再び蟻地獄の砂へと戻っていく・・・、この結末に意味を、どうとらえればいいのか?
この「砂の女」について、漫画「テルマエ・ロマエ」で著名なヤマザキマリ氏が、NHKの番組「100分de名著」の「砂の女」の回で、解説者として登場している。ヤマザキ氏は、安部公房に相当心酔しているようなのです。彼女は、「壁とともに生きる」という新書で、一冊まるごと安部公房論を展開しています。特にフィレンツェ時代、とにかく生活が苦しく安部公房の作品に救われたというのです。『やがて自分の頭の中がすっかり安部公房化してしまい、自分の思考もすべて安部公房の言語でできているような感じになってしまった。』と著書に書いているほどだから、よっぽど共鳴する部分があったのだろう。
日頃、ヤマザキ氏の発言を見ていると、本質を鋭く捉えた発言が多く、さすがだなと思うことが多々あるのですが、上記の「壁とともに生きる」という本を読むと、がっつり安部公房と向きあっていることが、ヒシヒシと伝わってきます。思考の深さが、私なんかと比べて、全然深いのです。
ヤマザキ氏の視点は様々な角度から「砂の女」に切り込んでいて、どれもなるほどな、と納得するばかりで、簡単には書くことができない。蟻地獄のような砂の壁はなにを意味しているのか?そこでもがく男は誰なのか?砂のすり鉢自体は何の象徴なのか?砂の中で生活する女は?実は女は何者かを引き出すための主人公の男なのでは?ヤマザキ氏の分析を読むにつけ「砂の女」が近代日本文学の傑作であるという評価が、より強固なものへとなってくる。
砂の壁とは、社会であり、会社であり、日常の環境であり、国家でありと、いろいろ読み取れるわけですが、そのヤマザキ氏は、『我々はそんな壁とどうやって生きていけばいいのか。それがこの作品からの究極の問いとなる。壁の外に自由を求めるのか、それとも壁の中の自由なのか。そもそもなぜ人間は己の特異性にこだわり、解放と自由を欲するのか。』と、書いています。鋭い指摘が素晴らしいヤマザキ氏。安部公房の「砂の女」、なんか実存的で問いで悩ましいなあ、と。