都市の迷宮、心の迷宮。安部公房の「燃えつきた地図」
安部公房「燃えつきた地図」
安部公房の『燃えつきた地図』を読んだ。この小説は安部公房の失踪三部作と言われているらしい。物語は、興信所の探偵である「ぼく」が、失踪したサラリーマンの捜索を依頼されるところから始まります。
依頼者は失踪した男の妻なんだけど、失踪という大事の割には、彼女の態度は、まるで他人事のよう、情報提示も非協力的で、曖昧模糊とした態度、いつもビールを飲んでいて、探偵とも飲み交わします。一体、本当に探してほしいと思っているのかがわからない。
そんな探偵が夫が所持していたというマッチ箱から手がかりを得ようと、喫茶店「つばき」を訪れますが、全く手がかりは見つかりません。喫茶店のマッチ箱、時代を感じさせます。マッチ箱、当時はひとつの宣伝媒体になっていた。ラベルのデザインが店の雰囲気を表現していた。今では喫茶店に行ってもすっかり煙草を愛飲できない店の方が多くなってしまった。
さらに、探偵は妻の弟や、失踪した男の部下と接触しますが、彼らもまた謎めいた行動を取る。調査が進むにつれて、探偵は次第に手がかりを失い、自分自身を見失ってしまうかのようになり自分自身が姿を消してしまうという展開です。
この作品は、手取り早く言えば、小説が書かれた1967年、高度成長において都市が肥大し、迷路化していくなかで、心の迷宮をさまよい、やがて、自己を見失って私という存在、私とは誰か?を描いていると言えます。
別の見方をすれば、探偵にとって周りの世界が「不思議の国のアリス」のようなものになってしまっているということ。依頼された失踪したサラリーマンが、アリスが追いかけたウサギのようでもあり、追跡しようとしたら、不思議の国に迷い込んでしまう。
安部公房の純文学的展開は、なにもかもがわかりやすく、手に取りやすくなった高度資本主義の現代では、ちょっと難解で、逆に読み手=私の読解力が落ちてしまっていると感じさせなくもない。わかりやすさに囲まれて思考する力が落ちゃっているのでは?と不安にもなります。
小説が発表された1967年には、私の好きな映画監督、今村昌平のドキュメンタリー形式をとった映画「人間蒸発」が公開されており、自分を見失い失踪してしまうということが、時代の問題として底流に流れていたのかもしれません。
そもそも、探偵という職業が他人の秘密を暴いていくことであり、それがどこか代償行為としての自分探しにも繋がっていたのが、得体のしれない、理解ができない人物などに遭遇することで、自分の心の迷宮に入り込み、崩壊してしまったのかも。
自分という存在は、とても危ういし弱い存在であるということを突きつけてきたようにも思います。それを認めることが、逆説的に危うく弱いのだと言わんばかりに。思うに、「不思議の国のアリス」は、迷宮に迷い込んでも最後まで少女アリスは気丈であったのですが、安部公房の描いた主人公の男は、心の世界が溶け出してしまいます。男は見かけはエラソーにしていても、心はガラスということにハッと気がついた次第です。