自己とは何か?安部公房「他人の顔」

安部公房「他人の顔」

安部公房の小説「他人の顔」は、事故で薬品を浴びた結果、顔にひどいケロイドを負い、元の顔を失ってしまった人物が主人公の話です。顔を失ったことで、主人公は自分のアイデンティティも失ってしまい、自分とは誰なのか?問い、自ら仮面を作り、別人として生きることを試みます。

『表情というのは・・・・・・どういったら言いか・・・・・・要するに、他人との関係をあらわす、方程式のようなものでしょう。自分と他人を結ぶ通路ですね。その通路が、崖崩れかなにかで塞がれてしまったら、せっかく通りかかった人も、無人の廃屋かと思って、通り過ぎてしまうかもしれない。』(※以下『』部分、安部公房「他人の顔」より引用)

自ら作り出した仮面をつけていると見分けがつかないと自負する仮面をつけることで、男は新しい自分として生きることを試みる。新しい仮面を通じて、今までとは違う経験や人間関係を築こうとするのだ。しかし、仮面を使うことで、逆に自分自身が本当に誰なのかという新たな問いが生まれてくる。

『覆面が欠かすことの出来ない必需品だった理由も、それで納得がいく。単に人相を隠すという消極的なねらいだけでなく、表情を隠すことで、顔と心との関連を断ち切り、自分を世間的な心から解放するという、より積極的な目的があったに違いあるまい。』

この物語は、自己と他者との関係、特に顔という外見がどれほど自分の存在に影響を与えるかということが主人公の視点で綴られ、そして仮面を通じて新しい自分を見つけようとする自己承認の試みなど実験的設定による小説と言える。

『だが仮面のやつは、わざとポケットの上から、固い感触を叩いてみせたりしながら、ぼくの困惑を笑い、たのしんでいるようでさえあった』

現代のSNSによるネット社会において、「他人の顔」は古い小説でありながらも、あらたなテーマを提示していると言えるだろう。SNSの匿名性、自分というキャラクターの個性をデジタル上で編集し、他者に提示すること。これは、仮面をかぶることと通じる部分が、SNSによるデジタルコミュニケーションは顔を介さずスマホやPCなどで成立するため、男が他者との関係を仮面を通じて再構築する試みとも関連しなくもない。

『仮面は、その名のごとく、あくまでもぼくの仮の顔であり、ぼくの人格の本質は、そんなもので、左右されたりするはずなかったのに、一度お前の目を通した通過した仮面は、はるか手のとどかない所に飛び去ってしまい、ぼくはなすすべもなく、ただ呆然と見送るばかりだった。』

さらに、「他人の顔」は現代社会における孤独感、疎外感にも通じているとも言え、デジタル社会におけるSNSの他人の目の問題や疎外感、個人情報などのプライバシーの問題点などに置き換えて読むことができなくもない。男の仮面を通じた自己表現の行動や社会的ルールへの挑戦も、SNS上の自己表現や社会的関係性について思いを馳せる材料と読み替えることができなくもない。

『顔の喪失という、ぼくの運命自体が、すこしも例外なことではなく、むしろ現代人に共通した運命だったのではあるまいか。』

ただ、小説のテーマが、そうした仮面性の問題は現代社会では実は自明の理だよ、という見方もできると思うし、小説の展開自身が、まどろっこしいと感じる部分もある、くどくどと書いている印象も受けなくもない。正直、新鮮なイメージがなく、最後尾にでてくる架空の映画の話がでてくるまで、ハッとさせられるまで時間がかかった。日本を代表する小説家の作品なので、無意識にどこかで強烈なアハ体験を求めている自分に読みながら気づく。

『書くことを馬鹿にしてはいけないと言っているのだ。書くということは、単に事実を文字の配列に置きかえるだけのことでなく、それ自身が一種の冒険旅行でもあるのだから。郵便配達夫のように、決まった場所だけを、廻り歩くといったものではない。危険もあれば、発見もあれば、充足もある。』

「他人の顔」は、初めて安部公房を読んだ小説でした。その文章力、語彙力はすごいと思う。たぶん、じわじわと効いてくるのだろうな、とそんな風に感じた作品でした。

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