ダン・ブラウン「インフェルノ」は「神曲」を読み直すきっかけに

ダン・ブラウン「インフェルノ」

ダン・ブラウンの「ダ・ヴィンチ・コード」は、隠された歴史を暴くエンターテイメントとしてその影響は計り知れないものがあっただろう。そのダン・ブラウンが、ダンテの「神曲」を、要素として組み込んだのが「インフェルノ」。主人公は、おなじみのハーバード大学の宗教象徴学者ロバート・ラングドン教授(映画ではトム・ハンクスが演じる)。

物語は、ラングドン教授がイタリアのフィレンツェで記憶喪失の状態で目覚めるところから始まる。彼はシエナ・ブルックスという女性とと協力し、やがて明らかになってくる人口過剰問題を解決するために、ウイルスを拡散しようとする生化学者ゾブリストの陰謀を阻止しようとする。この作品では、ダンテの「神曲」が様々な形で登場し、物語の進行に重要な役割を果たすことになる。

【「ダンテは、それまでの人間の想像を超えた嘆きと苦しみの世界を作り上げました。そしてそれがそのまま、現代の人々が思い描く地獄のイメージになっているのです」そこで間を置いた。「そう、カトリック教会はダンテに大いに感謝しなくてはいけません。<地獄篇>は何世紀にもわたって、敬虔な信者たちを震えあがらせてきました。恐怖に駆られて教会にかよう信者の数はまちがいなく三倍に増えたでしょう」】(【】部分、ダン・ブラウン著(訳:越前敏弥)「インフェルノ」より引用。以下同様)

「インフェルノ」というタイトルに見るまでもなく、ダンテの「神曲」の地獄篇からの引用があり、その地獄篇に基づいて描かれたボッティチェリの絵画「地獄の見取り図」が、物語の中で重要な手がかりとして登場する。 ボッティチェリ にこのような絵があったのは、小説で知りました。さらにダンテのデスマスクなども出てくる。そして、ラングドンとシエナは、ダンテの「神曲」に掛け合わされた隠された謎を解き明かしながら、フィレンツェ、ヴェネツィア、そしてイスタンブールへと旅することになる。彼らは、ゾブリストの計画を阻止するために急ぎますが、実はシエナが・・・・・・という、どんでん返し展開がありイスタンブールの地下宮殿でラングトンは、ウイルスの拡散装置を発見する。

ゾブリストが開発したウイルスは、遺伝子の突然変異を引き起こし、感染者の約3分の1を不妊にするもので、物語のクライマックスでは、これには驚くのだが、ウイルスはすでに拡散されてしまった。これは、人口増加を抑制するためのゾブリストの計画が部分的に成功してしまったことを意味している。この後の世界はどうなるのか、という含みを持たせたわけです。この小説、日本で翻訳された時に読んだのですが、その時と比べて違うのは、パンデミックを経験したこと。で今回、読んで改めて今思うのは、コロナ禍で広まった陰謀論とのある点で共通性があるなと感じ「インフェルノ」は、予兆的な部分があったのでは感じました。

「インフェルノ」は爆発する人口増加問題を解決するために、過激な手段を取ろうとする生化学者ゾブリストが登場し、人類の未来を守る口実でウイルスを使います。一方、新型コロナ禍においても多くの陰謀論が見られました。例えば、ウイルスは人工的に作られた、ワクチンにはマイクロチップが含まれている、ワクチンは人口削減計画の一環といったものです。こうした語られたことは、世界を牛耳る裏の超特権階級によるものとされるわけです。

一方、「インフェルノ」におけるゾブリストは、マルサスの人口論に強く影響を受けている。マルサスの人口論は、人口が食糧供給を上回る速度で増加すると、貧困や飢餓が避けられないというもの。そのために、地球の資源を守るために人口を減らす必要があるとして、トランスヒューマニズムの思想に基づきウィルスを拡散させようとします。トランスヒューマニズムとは、人間の能力や寿命を科学技術で向上させることを目指す思想。陰謀論とは視点が違うものの、いずれもそこに、人為が加担しているという点が見えてくるのです。

【人口過剰が重荷となると、それまで盗みなど考えたことのない人間までもが、家族に食べさせるために盗みを働く。人を殺すなど考えたことのない人間も、子供を養うために殺人を犯す。ダンテの言う大罪ー強欲、大食、欺瞞、殺人などが蔓延し・・・・・・快適な環境が失われるにつれて、人間の暮らしの表層へ浮かびあがる。われわれはまさに人間の魂のための戦いに直面しているのだよ。】

ところで、映画版「インフェルノ」では、ロバート・ラングドンとWHOのエリザベス・シンスキー博士が協力してウイルスの拡散を阻止に成功します。拡散装置を無効化することで、世界的なパンデミックを防ぐのです。この点で映画は原作小説とは異なる結末を迎えています。ウィルスが拡散するか、しないかには大きな違いがあります。作品としては悲観的な部分も含めて、私は小説の方が面白いと思いました。映画にはダンテの「神曲」を伝えるには無理があると思います。

ダン・ブラウンの「インフェルノ」は、ダンテの「神曲」を巧みに取り入れ、歴史と現代の問題を考えるエンターテイメント作品になっており、私にとっては、馴染みのない世界的な古典である「神曲」について、読み直すきっかけになった小説でした。

【ダンテが<地獄篇>の最終歌で記したとおり、悪魔には三つの顔があるという印象を与える。・・・・・・・悪魔の邪心には三つの面があり、そこで象徴的な意味があることをラングドンは知っていた。聖三位一体の輝きと完璧な対照をなしている。ラングドンは不気味なモザイク画を見上げ、これが若きダンテにどんな影響を与えたのかを想像した。】

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