アンソールの「仮面の中の中の自画像」が、語りかけてくる・・・
私が仮面について、一体何なんだろうと思うようになったのは、20代の時に美術館で開かれた、ベルギーの幻想画家ジェームス・アンソール展を見に行ったときに、『仮面の中の自画像』とう作品を見たときに、アンソール自身と思われる中心にいる人物と、その周囲にいる仮面をつけたあやしげな人物たちの絵に衝撃を受けたことが、きっかけでした。
この「この仮面の中の自画像」ですが、真ん中のちょっといい男は、アンソール自身です。人は世界をみる時、どうしても自分が中心になります。それは自分以外の体を持つことができないために、どうしたって自分というフィルターを通して、世界を見ることになります。
他者がどう世界を見ているかということはわかりません。 恐らくは、あの人も、その人も自分と同じ感覚で世界を見ているだろうと、類推でしかないのです。自分がされたら嫌だなと感じることは、他人も同じように感じるだろうなということです。
こうした他者との断絶を我々は生きているから、男と女の食い違い、肌の色からくる迫害、宗教的に信じるものが違うから戦争が怒る、金持ちと貧困、隣り合った国の境界線争い、体制の違い、と自分と他者から始まり地球規模にまで広がります。
そして私という自我はどこまでも、自身の正当性をどこかで感じ、程度の差こそあれ、自分自身を美化し、自分第一という感覚を、無意識において感じているのだということ。
こうした境界性を突き詰めて考えていくなかで、自分のダメな部分、汚い部分、ずるい部分にふたをして、私という存在を、ある意味で、優位性という感覚でとらえていくと、だんだん自我が肥大化していくわけです。
この絵ではアンソール自身が、ハンサムで誠実そうなイケメンに描かれ、周りの他者はすべて、仮面を被り腹に一物を持った人物として、異様に描かれています。美と醜との対比、美は自分であり、醜は他者であるという構図。
仮面はカーニバル的要素を持ち、もしかしたら猜疑心、嘲笑、狡猾、不信、不安、などが渦巻き、来るべき狂乱と歓喜の世界観に満ちた、お祭り騒ぎの喧騒をの予兆を表現したのだろうか?イメージが祝祭にも飛躍していく予感をはらんでいます。
アンソールはキリストになぞらえた絵も描いており、人類のために十字架にかけられたキリストの犠牲を自分に暗にたとえており、どこか自分自身をヒーロー視している部分もあるように思えます。それはそうすることで、自分の自我を支える要素であったかもしれないと思ったりします。あるいは、そうしたことを意図的に仕掛けた作品で、観賞者を困惑と気づきと猜疑心の次元に引きおろす絵なのか?
アンソールの「仮面の中の自画像」は、いろいろな見かた、感じかたができる作品で、私にとっては忘れえぬ絵なのです。
アンソールの芸術作品において、仮面は重要なテーマであり、彼の作品の中で頻繁に登場します。仮面はアンソールの作品において、アイデンティティの変容、隠蔽、仮想的な性格、社会的な仮面、個人と社会の関係、そして人間の複雑な性格などのテーマを象徴するために使用されたように感じます。彼は仮面を通じて、現実と虚構、内面と外面の関係を探求したのだろうと。さらにアンソールは、仮面を風刺の手段としても使用しました。彼の作品には社会的な風刺や批評が含まれ、仮面はしばしば社会的な役割や仮面をかぶる人々の特性を浮き彫りにするために利用されました。
アンソールは、「私は仮面が支配する孤独な環境-あらゆる暴力や光、威厳-に密かに近づかないようにしてきた。仮面は私にとって、感情の刷新や誇張表現、派手な装飾、意外なジェスチャ、無礼講の身振り、極上の混乱などを意味する」と発言しています。この言葉を読む限り、カーニバルの非日常性を連想します。
事実、アンソールの作品に登場する仮面は、カーニバルの要素とも結びついています。それは自信をキリストになぞらえた『キリストのブリュッセルの入城』など群衆の狂気性を描いた作品もあります。渋谷スクランブル交差点でのハロウィンのバカ騒ぎを見るまでもなく、カーニバルは社交性、歓喜、欲望、そして社会の規則を一時的に解除する狂気性を帯びた場であり、アンソールの作品では仮面を通じてこれらの要素が導入されまた。
仮面は、アンソールの作品において幻想的な世界を創り出す手段として支え、仮面を通じて新たな心的な現実を創り出しました。