異性装は別次元のパワーを秘めているのか?

「装いの力 異性装の日本史」(渋谷区松濤美術館)

渋谷区立松濤美術館、なかなか粋な展覧会を企画しています。「装いの力 異性装の日本史」(10月30日まで)、つまりどういうことかたおいうと日本文化の中で、男装、女装現象を美術史的に解読した展覧会。区立の美術館でこんなことやるなんて、なかなかイメージできないのですが、面白いことに、普段は美術館で見ることができないような、奇抜なファッションに身を固めたお客さんがいたということ。

また、今は別の広告に変わっていますが、渋谷のスクランブル交差点前、若者たちが集う場所に美術館が広告をだしていたこと。これも区立の美術館がやるのはユニークだなと。

日本において異性装が言及されたのは「古事記」にまでひるがえることができる。九州征伐を命じられたヤマトタケルが女装し熊襲兄弟の宴に参加し討伐したという話。あるいは、神功皇后が新羅に対して男装し武装して出兵したこと。日本の神話や伝説にそうした異性装のエピソードを見ることができるし、それを題材とした美術まで残っている。

このようなことを書いてくると思いだしてくるのが、私の子ども時代、テレビではピーター(池畑慎之助)というタレントが歌を歌っていましたし、王女が男装するという手塚治の「リボンの騎士」というアニメ番組がありました。子供の頃から異性装の文化には触れていたんですね。大ヒットした「ベルサイユのばら」もそう。

そもそも歌舞伎においては男が女性を演じる女形、宝塚歌劇団では女性が男性を演じるという演劇文化が日本にはあります。いずれの公演も観に行ったことがあるのですが、歌舞伎の女形の大スター坂東玉三郎の舞台を見た時、その美しさに大変驚いた記憶があります。とくに泉鏡花の「高野聖」の舞台。煌びやかな衣装ではなくシンプルな着物姿が実に美しかったし、入浴の場面があるのですが、劇場内を支配したその独特の緊張感は今も感覚的に覚えています。

51コラボでもそういえばこうしたテーマの企画したよな、と思うのがドキュメント映画「ハイヒール革命」で主演したLGBTの真境名ナツキさんを迎えてスピリチュアルサミット2を実施したこと。これは私がこの映画のプロデューサーの益田さんと知り合いで、ちょうど映画を作ったころで、男性脳と女性脳を行き来するというところでピンときたから、講師として登壇してくれないか?と打診して実現したのでした。

意外と私もユニークなことやってるなと思うのですが、こうした異性装、トランスジェンダーを扱ったもので忘れがたいのが、寺山修司の「毛皮のマリー」です。老いが見え隠れする男娼のマリーが主人公。寺山修司が生きていること美輪明宏さんがそれを演じたのが有名ですが、私も何度となく三輪さんではないですが他のの役者が演じたマリーを見ています。美輪さんは江戸川乱歩の「黒蜥蜴」、こちらも美輪さんが演じることで乱歩の独特の世界を表現していました。

寺山修司作「毛皮のマリー」、美輪主演「黒蜥蜴」、玉三郎主演「高野聖」の公演チラシ

●刺青の男
それにしても、マリーさん。あんたは、どうして女に変装したりするんだね?ちゃんと男つうものがありながら。
●マリー
それはあんたが刺青をしているのと同じことよ。どうしてあんなもの彫るの?きれいな肌がありながら。ちゃんとした男でありながら、男であるだけじゃあきたらず、警察官を演じたり、船乗りを演じたり、思想家を演じたり、フットボール選手を演じたるする人が、いっぱいいるのに、おかしいじゃありませんか。女を演じるだけを、好奇の目でみるなんて。

●マリー
そう、世間の人はあたしのことを、自然じゃないって仰言るようね。作りもので、神さまの意志にさからっているって。でも、そう言う人に限って、庭に花の種子をまいたりすることは平気なんだ。神様とはまるで無関係の、一袋二十円の種子なんぞまき散らし、それが自然を冒涜しているなどとツユ思わない・・・・・・いいえ、どうせ、人生には自然のままでいいものなんて一つもありゃしないんだよ。

※「寺山修司著作集3」(クインテッセンス出版社)より引用

ちなみに、2018年パリで偶然遭遇したレインボーパレード、日本のそれと違い迫力とはっちゃけ感が全然違いびっくりしました。様々な芸能や現象を見てくると、いろいろな意味で異性装は別次元のパワーを有していると思えてしまいます。

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