推定無罪という概念を巡って
映画「私は確信する」(2018年)
■製作年:2018年
■監督:アントワーヌ・ランボー
■出演:マリナ・フォイス、オリビエ・グルメ、他
2000年2月、フランスのトゥールースで1人の女性が3人の子供を残して忽然と姿を消した。夫に殺人容疑がかかるも決め手となる証拠や動機も見当たらない。メディアの報道は過熱し・・・。
実際の事件の裁判を扱ったフランス映画「私は確信する」は、事件の捜査や裁判にかかわる関係者、あるいはそれを報道するマスコミの思い込みによって、物的証拠は不確かだけどどうしても彼は怪しいという空気が形成されてしまうと、どんどん人間の感情はそちらのほうに流されていってしまうのではないかということを投げかけているように思いました。
こういう不確かな憶測で空気が形成されいていくというのは恐ろしいことです。人間は考える動物とは言え、歴史を見れば容易に誘導され、ネズミの集団自殺であるレミングではないですが、思いもよらぬ方向に走っていくのです。
もし犯人ではないかと疑われた人物が、実は無罪であったという「冤罪」の問題、犠牲は、その当事者のみならず、家族や関係者にまで及ぶ被害、苦痛、代償は計り知れないものがあるのは想像に難くないでしょう。我が国でも袴田事件をはじめ多くの冤罪の問題が社会問題としてある通りです。。
冤罪であったと言う判決が下りても、そこには時間と言う問題があり、取り返したくても取り返すことができない問題が横たわっています。これは言葉で容易には言えないヘビーなこと、あってはならないことです。
映画では「推定無罪」という言葉がでてきました。憶測ではなく証拠に基づき判断すること。証拠がなければ疑わしくとも無罪というのもの。実話に基づくこの映画で語られていたこと、10年と言う時間を犠牲にして、無罪になったのにまだ犯人扱い、推定無罪を尊重しないのか?という最後の弁護士の熱弁がありました。
この部分は見せ場であり、感情を揺り動かされる場面なのですが、人が人を裁くということはとても難しいということも感じさせてくれます。推定無罪という概念も合理的判断ゆえ、言葉にならない一抹の感情としてすっきり割りきれないのも人間なんだと。
実話をベースとした法廷ドラマとして、いろいろ考えさせられる映画でした。