世紀の傑作!深く深く恐ろしい自分の内面へ向かう旅か?

映画「地獄の黙示録」(1979年)

■製作年:1979年
■監督:フランシスコ・フォード・コッポラ
■出演:マーロン・ブランド、ロバート・デュヴァル、マーティン・シーン、デニス・ホッパー、他

この映画が日本で公開されたのは1980年、私が大学受験の浪人をしている時です。『ゴッドファーザー』で巨匠の仲間入りをはたしたフラシス・フォード・コッポラが、とてつもないベトナム戦争をテーマにした映画を撮ったと大きな話題になっていました。当時は迫力の映像こそ覚えているものの、後半のカーツ大佐の部分になってくるとさっぱりわからずじまいでした。後半は観念的な世界に入っていくので映像の凄さを感じるものの、キツネに包まれたようになってしまったのをおぼえています。世紀の大失敗作とか大傑作とか、その評価が賛否別れたような記憶があります。

以後、何度かこの『地獄の黙示録』をテレビやビデオ、映画館で観るようになります。同じ映画を何度か観ようというふうに思える作品はそんなにありません。特に映画館まで行って、というのは。この映画はそういう意味では不思議な魅力を持った映画なのです。IMAXシアターでこの『地獄の黙示録』が上映されると知り、これは観たいと思いました。CGではなく実写で撮影したあの迫力の映像を体感してみたいと。

キルゴア中佐が陣頭指揮にたってベトナムの村を襲撃する場面は、大画面による迫力の描写で、実写で撮ったというのが半ば信じがたいくらいです。ワーグナーの「ワルキューレの騎行」を流しての爆撃は狂気としか思えません。しかしこの狂気もような行動が後半のカーツ大佐がの部分の光と陰のような対比になっているとも感じるのですが。

とにかく、映画史上におけるこの有名なシーンは、この映画の大きな見せ場の一つであり、ここから川を登っていきながら変化していくウィラード大尉の内面を変化させていくことを予兆させるNi充分すぎる入口となっていると言えます。続くエピソードはどれも印象的なのですが、PLAYBOY誌のカバーガールの慰問の場面は、生と死の狭間で戦って恐怖と闘っている兵士にとって生に直結する性的な要素の投入という本能と戦争という部分、同じく戦争の狂気を別の形で表しているかのようで忘れがたいスペクタクル感覚あるシーンです。

こうしたイニシエーションとも言えるような様々な出来事を通しカーツ大佐が築き上げた王国へとウィラード大尉は足を踏み入れて行きます。この過程はある意味で無意識への航海のようであり、そこで出会うカーツ大佐は、肥大化した自己、あるいは、ウィラードにとっては気づくことのできなかった眠れる自己との出会いとみることもできるでしょう。

ウィラードは非日常的な死を伴う恐怖に彩られたイニシエーションを通して玉ねぎの皮を向くように心の外皮を一枚一枚剥いでいき、知られざる自分自身の奥深く眠っている隠された自己としてのカーツ大佐を発見したのです。この「地獄の黙示録」は神話的な王殺しのイメージがあるわけですが、自分という存在、アイデンティティを支配する王、知られざる自己自身をカーツにみたのです。ただし、ウィラード自体はそうしたことを知らずにいます。彼は流れるままに、ベトナム戦争における秘密任務を遂行しただけ。しかし異質な分子を抹殺するというその極秘任務こそが実は自己へ至る通過儀礼となってしまったのでしょう。

なので映画自体は戦争を描いているのにリアリティがないということもうな頷けるのです。なぜならベトナム戦争という格好の素材をベースに人の心の内面へ潜っていく無意識への旅を描いているから。これは私独自の感性で感じた「地獄の黙示録」観劇体験なのでかなり独断と偏見にまみれた感想なのだと思う次第です。

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