これは行き詰まる創作の悪夢なのか?「バートン・フィンク」

映画「バートン・フィンク」(1991年)
■監督:ジョエル・コーエン、イーサン・コーエン
■主演:ジョン・タトゥーロ、ジョン・グッドマン、他
理想主義者、ハリウッドという異物に飲み込まれる
ジョエル・コーエンとイーサン・コーエンの監督による「バートン・フィンク」は、まさか、まさかの驚きの映画でした。1940年代初頭、アメリカが戦争に参戦する時期、ニューヨークで成功を収めた劇作家バートン・フィンクが、ハリウッドの映画会社に招かれるところから始まります。彼は生活に根ざした庶民のための芸術を意識している理想主義者。だが、その理想はハリウッドの、それもプロレスの映画を作れ、脚本は読まない、あらすじを教えろ、というB虚映画を作っている傲慢で独りよがり、売れればいいという映画会社社長の現実の前で急速に空洞化していき、創作のスランプが訪れる。書けない、書けない。全く前に進まないのだ。
剥がれ落ちる壁紙と精神の崩壊
そして舞台となっている安ホテルは、蒸し暑く、厚さで壁紙が剥がれ落ちてくる。壁が薄くて隣の部屋の音も、もれてきて、どこかおかしい、落ち着かない。部屋に紛れ込んだ虫が気になる・・・。創作できないというスランプの主人公の内面をあらわしているかのよう。バートン・フィンクは現実との接点を失っていく。映画は心理を説明しない。しかしどこか、異様で落ち着かない画面をみていると、それは主人公のバートン・フィンクの内面をあらわしているかのようでもあるのだ。彼の理想の理念は、まるで粘着力が弱まり、めくれあがる壁紙と同じだよと言わんばかりに、剥がれ落ちていく。そしてホテルの廊下もなんか変。まるでどこへ通じているのかわからないトンネルのよう。バートン・フィンクは、彼のベースとなる環境が、歪んで見えてしまう極度のスランプ状態になっていく。
善意の顔をした悪夢的存在
さらに輪をかけるように、登場してくる人物のほとんどが、バートン・フィンクをめげさせる存在ばかりだということ。映画会社の社長も、作家も、作家の秘書も。負のスパイラルに堕ちていくと、目にするもの、接する人がマイナスに見えてくる。その中でも、とびきりすごいのが、隣室に住む自称保険外交員を名乗るチャーリーを演じるジョン・グッドマンの存在だ。ジョン・グッドマンの演技は圧巻で、悩めるバートン・フィンクから信頼されるように優しさと人の良さをにじみだし、バートン・フィンクは彼に泣きすがる。しかし、後半明らかになるサイコロジカル・スリラーへと変貌するその落差がすさまじい。憔悴しきったバートン・フィンクと、ジョン・グッドマンが再び登場してきたとき、映像はそれが、リアルな火事なのか、それとも心象風景がそのように見させたのか、炎の演出によって、映画をまるで悪夢へと落ちていくようだ。
絵の中の女は・・・創作と現実が溶け合う終幕
バートン・フィンクは、その実、ひ弱なインテリでコンプレックスのかたまりに見えてしまうのだが、なんども映し出されたホテルの一室に飾られてた浜辺の女性の絵とラストに現れた現実のリアルな浜辺の女性が、重なってくるのは、いったい何を意味しているのだろう。理想の自由な浜辺、リアルな開放的な浜辺。絵で描かれた女性、リアルな女性。創作とリアルな現実・・・・・・いやー、この映画は難しい。哲学的とも言える難解さだ。コーエン兄弟の自画像を描いたのかな?いやそうじゃないのかな?とても難解だけども、この映画は、飽きさせず見せてくれる。「バートン・フィンク」という映画、言葉では言い表せない不思議な作品だった。

