AIのシンギュラリティからクールな視点に驚いた

「宗教と生命」角川書店

「宗教と生命」というタイトル、これは2018年に角川書店と朝日新聞社の主催で行われたシンポジウムを収めた本で、そこには池上彰、佐藤優、松岡正剛、安藤泰至、山川宏というそうそうたるメンバーが並んでいます。宗教と生命という刺激的な内容かと思いきや、話のメインはAIとなっており、これから私たちの生活を変える可能性があるAIのそれもシンギュラリティの話となっています。

その冒頭ですが、有名な池上彰氏と佐藤優氏の対談なのですが、そこで佐藤優氏は、なるほどなという、冷静な視点から話をされています。

AIにおけるシンギュラリティについて。シンギュラリティとは技術的特異点とされ、AI自らが人間を超えてしまう段階が近い未来にやってくるという概念。これは数年前にAIの持つ力が無視できないほど強力であり、話題になった時に、人類の将来を見た時にシンギュラリティが我々の生活自体を根底から脅かすのでは?と話題になりました。そこで佐藤氏は、シンギュラリティとは基準があって成立するゆえに座標軸を共有しないといけないと言います。

人の認知能力より数段に強力であるというAIは、特化された課題に対して人間を超えるスピードで計算してくれ、かつ正確な結果を出すので、すごいとなるわけですが、あらゆる面において総合的かつ万能な人工知能が生まれ得るのか?という視点があります。ここで佐藤氏は、数学者である新井紀子氏の論を引き合いに出して、AIには意味が分からないので、それが決定的な弱点でシンギュラリティが来るかもしれないというのは、ノストラダムスの大予言と同じだと。

コンピュータとは計算機であり、使われているのは数学言語。できることは四則演算。可能なことは、論理、確率、統計しかないのだと。ではその数学言語に、心の機能はあるのか?つまり複雑怪奇な心というやっかいな問題を数学言語に還元できるのか?という話になります。

1未満の数字は、いくら掛け算をしても1より大きくなることはない。むしろ無限に繰り返すとゼロに近づく。が、1.1でも1.01でも1.001でも、1を少しでも超える数は、掛け算を続けていくと無限に大きくなる。つまりAIが自分自身よりも少しでも能力の高いAIを作り出せるようになればという仮定の話で、それが超スピードで繰り返されることにより、SFで語られるような無限の能力を持ったAIが生まれるのではないか、というのですが、コンピュータにおいて1未満で設定されたものが、突然、1を超えることふができるのか?まさに突然変異の問題も・・・。

シンギュラリティが来るということは、数学の論理的基礎づけ、位置づけにより判断されるべきであり、実は論破されているものの、来ると発言している立場の人、発話主体の立場によるんだとして、そこにAIと宗教の接点があるというのです。重要なのは、メタの立場、その前提としてある偏見、先入観、価値観により見える世界が変わると佐藤氏はいいます。

わかりやすい例でみると、人間が空を飛ぶための羽をつけても、飛行機のようには飛べない。どんなに筋力を鍛えても、新幹線より速く走ることは無理で、飛行機や新幹線があっても人類は滅ぶことないという視点でAIの計算をみることになると。

ただ、でもここまで書いてくると、AIによって巧みに我々が受け取る情報が誘導され歪まされることにより、人々の考え方、見え方の形成に分断が起こり、AIそのものではなく、新幹線や飛行機が便利であるというのと同じくAIが便利であるという点から、もしかしたら人類は大きな誤解と不理解で、自ら自滅していく道を歩んでいってしまうのではないか?と内心、個人的に思ったりしてしまいす。

佐藤氏は、SF的世界で見ると世界中のコンピュータが繋がり、神が存在するというものがるとして、そこでの神は、ユダヤ・キリスト教的な神ではない。人間の限られた知性によって象徴される神は偶像であり、神ではない。神の存在証明はできないと。

しかし、AIは宗教的なカウンセリングはできるであろうから、そこに宗教の存在価値が問われ、宗教の危機が来るのではないかという視点について、佐藤氏はクリスチャンであるもののユニークな話をしています。つまり宗教は危機に慣れている。キリスト教の場合は、危機は2000年間続いている。というのはイエス・キリストが私はすぐ来ると言って天に昇ってから、2000年間、まだ復活していないからと。しかし、佐藤氏自身は復活を真面目に信じていると、問題は。この信じていることを病理現象として見るかどうか、と自ら発言しています。

私はこの佐藤氏のクールな視点について、読んでいて笑いを以って捉えたとともに、なんてクールで知的な人なんだろうと感心しました。書店に行くと人気で佐藤氏の本が一杯ありますが、私は読んだことはないのですが、このようなクールで切れるような視点で語っているとすれば本がいっぱいでているのもうなずけるなと思うのです。

佐藤氏がさらに知的で切れると思うのは、上記に書いてきたような問題は、立場設定の話(基準点、座標軸)で、趣味の話趣味の話は差異の問題であり、差異は矛盾と違って解消が不可能であると。例えば、自分がどんなに頑張っても、身長2メートルになれない。差異は認めるしかない。その際から出てくるのが、趣味、趣味の違いとは差異であり、矛盾や対立とは違うから解消できない。差異の問題とは、設定の問題であり、シンギュラリティでいうなら数学基礎論の公理の問題になるとしていること。これは佐藤氏自身がクリスチャンであるというという、いわゆる立場設定について自ら冷静に判断して発言しているということであり、それは下記の話に顕著にでています。

それは、シンギュラリティがやがてやってきて仕事がなくなってしまうのではというAI教とでもいうようなものについて、佐藤氏は「悔い改めよ。神の国は近づいた」の代わりに「悔い改めよ。シンギュラリティは近づいた」と新しい時代がやってくると洗礼者ヨハネやイエス・キリストと同じフレームで人を煽ると。驚くは「キリスト教をよく勉強しておけば、人を煽り、政府から助成金を得、民間からカネを吸い上げる形で儲けることができる。その秘訣はキリスト教の中にあるから、神学を勉強すると金儲けにつながるかもしれない。と発言しており、池上氏に「本当にクリスチャンですか?」とまで言わせていることに顕著にみることができます。

さらには宗教とビジネスという観点から最も成功したものは、免罪符販売として「人間は原罪を持っているから、悪事を働く。それが人間なのだから「悔い改めなさい」と言って合理化してビジネスにしてしまうとも発言し、驚くばかり。この視点、発言はなかなかできないと思うし、クールすぎる佐藤氏の姿勢にはほんとにびっくりさせられたわけです。

宗教と生命という内容に関する本なのに、すっかり佐藤優氏の知性に驚き魅了されたというのが、読後の印象でした。

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